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2008/01/28

ルール・イスラミア:人ほどの存在よ

ハンド再予選開催でアジア連盟「東京五輪不支持」(iza)
「国際ハンドボール連盟(IHF)は「中東の笛」と呼ばれる疑惑判定を糾弾した日本と韓国の訴えを聞き入れ、予選のやり直しを決定した。しかし、傘下であるはずのAHFは手続きの不当性を盾に取り、対決姿勢を鮮明にする。アハマド会長はIHF寄りの日本を「違法な大会を支持する国を、今後どうして信用できるだろう」と攻撃した。」

国際ハンドボール連盟の試合ルール、8.6をご覧下さい。

International Handball Federation Rules of the Game

Rule 8 Fouls and Unsportsmanlike Conduct

「It is permitted to: 8:6 Seriously unsportsmanlike conduct by a player or team official,on or outside the court (for examples, see Clarification No. 6),shall be punished with disqualification (16:6d).」

(私訳 ルール8:ファウルおよびスポーツマンらしくない行為

8:6、選手またはチームの審判によるひどくスポーツマンらしくない行為は、コート内あるいは外で失格にできる) 

法というものを端的にいえば、それは強制をともなったルールなのだといいかえられます。

もし法律からその強制力を剥がしてしまい、いったんただのルールに戻せば、それはわたしたちひとりひとりが幸福を追求する権利と、わたしたちが所属するそれぞれの集団の運営との折衷案でしかありません。

個々人の帰属する集団にルールが存在することが、遠回りにわたしたちが幸福をできるだけ追求できるよう機能しているのです。

しかし誰もが必ずしも折衷案に納得するわけではありません。

そういうときのため、ルールに強制力を装備したもの、それが法律と呼ばれているわけです。

ところでそもそもわたしやあなたはなぜ、国家が強制力をもってひとつの約束事を強制してくる事態をすんなりと受け人れているのでしょうか。

それは法律とよばれるものが、現時点で考え得るもっとも公平な正義であることを、わたしやあなたが納得しているはずからだと考えられています。

このわたしたちの感覚のことをルソーは、一般意志と呼びました。

ただもう少しよく考えると、なぜ人の一般意志が正義なる社会折衷案の正解に限りなく近くたどり着けるのかは不思議な気がします。

人間の歴史とは、一方で過ちとその修正の歴史だったともいえるからです。

この点、自然法思想と呼ばれる考え方は、人には理性があるからこそ、正義という正解にたどり着けると考えます。

かつてトマス・アクィナスは、著書『神学大全』のなかで、世の中の法律を「神の法」、「自然法」、「実定法」の三つに分類しました。

まず神の決めた絶対的な法があり、そのうちで理性のある人間だけに見える一部の法があり、これを自然法と呼びます。

そしてそれをもとに人間ほどのものが具体的に作り上げたルール、それが実定法だという分類です。

実はイスラム教徒には古くから教徒のための神が作った生活基盤を規定する法律、「コーラン」が存在していました。

キリスト教徒は彼らイスラム教徒の揺るがざる論理的基盤に対抗するため、コーランという「出版されている神の言葉」に対抗して出版されざる神の言葉、「神の法」という概念を編み出したといいます。

そして「人を殺してはいけない」「物を盗んではいけない」など全世界共通のルールは、神の法のうちから人の理性の目に見えた自然法だとしたのです。

それを具体的法律に直したものが実定法です。

キリスト教徒の務めは、「神の法」に従うこと。

そのためには、「自然法」に従うこと。

さらには「自然法」に従う限りで「実定法」に従うということです。

やがて啓蒙思想の時代、国家が教会の支配を脱して神の法はなくなりました。

その結果、「自然法」が繰り上げ第一位となったわけです。

やがて自然法という思想ツールは、一国の王の首まで切り落とすフランス革命を発動させるまで機能しました。

そしてそれらはすべて、キリスト教徒がコーランに対抗するため建築したアイデアだったというのです。(以上参照:橋爪大三郎 人間にとって法とは何か (PHP新書)

クウェートの王族が事実上支配するといわれるハンドボールのアジア連盟。

王の言葉は神の言葉だとルールを運用する審判への絶対服従を要求するのか、「王といえども」の自然法思想により不合理なルール運用には国際ハンドボールルール8.6を適用してこれに対抗できるとするのか。

スポーツのルールへの解釈ひとつとっても、それぞれがそれまで従ってきた神の衣が見え隠れしているのだと、気の利いた心理学者ならいうかもしれません。

 

 

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2008/01/13

うつ:感情のバッファオーバーフロー

長男転落死の西村議員が手記公表(原文のまま)(iza)
「救急隊の必死の救命活動そして慶応病院の救命活動の後に、12時07分死亡が確認されて後私どもは、この突然の悲しみの中でなぜ、林太郎の転落を止められなかったのかと深く自責の念にかられながら今、林太郎は、ウツの苦しみから解放され、神に召されたのだと慰め合っています。」

精神保健福祉法の22条の3をごらんください。

精神保健及び精神障害者福祉に関する法律

第22条の3(任意入院)

「精神科病院の管理者は、精神障害者を入院させる場合においては、本人の同意に基づいて入院が行われるように努めなければならない。」

わたしたちが己が心に不安や怒り、また悲しみを抱えるのは、その生命を維持するために原始共同体から積み上げてきたオートプログラムです。

互いに言葉ももたなかった時代、それらの感情はあらゆる生命の危機からわが身をもっとも高確率で守ろうとしたときに機能させるものでした。

しかしもしわたしやあなたの中で、いったんこうした負の感情群が一斉に起動してしまうと、わたしたちはその本来の意志とは別のやりきれない感情のぬかるみを長く歩いていくことになります。

これがうつと呼ばれる状態です。

そして負の感情が一斉に起動してしまうことの契機は、精神に容易を長期にわたり蓄積しやすくなっている高度競争社会の仕組みそのものだといいます。

さらに苦しみという感情の機能として、自らの疲労の実感を過小評価させて一つの仕事に専念させようとするため、役割が高度に分科した現代社会では、わたしたちは自らの疲労の蓄積に気づきづらくなってしまっています。

よってもし身の回りの愛する人の様子が変だと感じたときは、まさに西村議員のご家族がとられたように、敏感に本人の行動に気を配ってあげることが非常に重要なのだといえます。

なぜならばいったんうつと呼ばれる状況が発動すると、本人の生きようとする本能とは別に、一斉に襲いかかる負の感情群が彼を衝動的に死に向かわせてしまうことがあるからです。(以上参照:人はどうして死にたがるのか 下園壮太 文芸社

一方で精神障害の治療には、本人の罹患したという自覚とそれは治療が必要な状況であるという納得があったほうが望ましいのはいうまでもありません。

実際精神保健福祉法、その22条の3も、精神科病院の管理者が精神障害者を入院させる場合には、精神障害者本人の同意に基づいて入院が行われるよう努めるべき旨の努力義務を定めています。

人権尊重という法律面からの検討以外にも、治療的観点からも、こと精神治療に関しては、本人の意思による任意入院という手続き自体が、退院後の治療や再発時にも好ましい影響を与えるものと考えられているからです。

精神の病のひとつであるうつも、本人に自覚することの難しい、”負の感情の一斉暴走”という現象であるならば、その病で不覚にも自ら命を断ってしまった方々の数々の無念は、わたしたちに新しい次元の警鐘をもたらしてくれています。

新しい態度でその病を見つめれば、うつを本人の弱い心の属性だと決め付けてしまうには、あまりにもありふれた場所でわたしたち自身を待っていることに気がつくからです。

 

西村議員のご長男、林太郎氏には、やすらかなご冥福を心からお祈りします。

 

 

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2008/01/08

危険運転致死傷罪:餡のない饅頭

3児死亡事故の今林被告に懲役7年6月、危険運転罪退ける(読売新聞)
「幼児3人が犠牲になった福岡市の飲酒運転追突事故で、危険運転致死傷罪と道交法違反(ひき逃げ)に問われた元市職員今林大(ふとし)被告(23)の判決公判が8日、福岡地裁で開かれた。川口宰護(しょうご)裁判長は「酒酔いの程度が相当大きかったと認定することはできない」と述べ、危険運転致死傷罪(最高刑懲役20年)の成立を認めず、予備的訴因として追加された業務上過失致死傷罪(同5年)を適用、道交法違反(酒気帯び運転、ひき逃げ)と合わせ法定刑上限の懲役7年6月(求刑・懲役25年)を言い渡した。」

刑法の208条の2をごらんください。

208条の2(危険運転致死傷)

「アルコール又は薬物の影響により正常な運転が困難な状態で四輪以上の自動車を走行させ、よって、人を負傷させた者は十五年以下の懲役に処し、人を死亡させた者は一年以上の有期懲役に処する。その進行を制御することが困難な高速度で、又はその進行を制御する技能を有しないで四輪以上の自動車を走行させ、よって人を死傷させた者も、同様とする。 」(以下略)

2001年に危険運転致死傷罪が新設される大きな要因となったものが東名高速事件です。

量刑を不服とした被害者遺族が中心となって悪質交通事故事件厳罰化を呼びかける署名活動が展開され、37万人を超える署名が集まりました。

これをきっかけに危険運転致死傷罪は新設されたのです。

この危険運転致死傷罪は重い罰を用意するために、過失犯である業務上過失致死傷罪と区別する意味で故意犯とされています。

しかし酔ってハンドルを握った時点では、人の死傷という結果の認識・認容がないのにもかかわらず、故意犯とするためには、法技術的な操作が必要です。

このため危険運転致死傷罪は、結果的加重犯に類似した構成が採られています。

結果的加重犯とは、例えば,傷害罪を犯したところ、その負傷が原因で被害者が死亡したなら、傷害罪ではなく傷害致死罪となるように、基本的な犯罪の故意しかなくとも発生した重い結果の加重刑で処罰される罪のことをいいます。

しかしここで、危険運転致死傷罪を大福の餅にたとえるならば、餡にあたる基本犯である「危険運転」という罪は刑法に存在していません。

つまり餡のないとても奇妙な刑法の大福、それが危険運転致死傷罪だとたとえることができます。

それは厳罰という大きな餅をつくるためには、餡の部分が単なる道交法違反の故意では不十分だったためだと考えられます。

さて、208条の2(危険運転致死傷) の1項、”酩酊運転致死傷罪”に当たるためには、酩酊の影響により現実に前方注視やハンドル、ブレーキの操作が困難な心身の状態となることが必要だと条文から読み取れます。

そしてドライバーに危険運転致死傷罪を課すためには、「正常な運転が困難な状態」の認識が故意として要求されることになります。

しかし人ならば誰でも普通、酔えば酔うほどそのような認識が難しくなってくるはずです。

危険運転致死傷罪は故意犯と規定したゆえ、酩酊という危険が増すほど罪を成立させる構成要件である危険運転の認識が難しくなるという、構造上のパラドックスを抱え込んでいます。

もし「ひどく悪いやつには、ひどく重い刑を」という、わたしたちの極素直な感情を、司法により明確に要求するならば、危険運転致死傷罪には、もっと緩和した要件を設置しなおすべきです。

実際このようなおろか者に、もし自分の家族を殺められたなら、誰しも同じ死を法が加害者に用意することを望むことは人としてとても自然な感情だといえるのではないでしょうか。

しかし一方で、司法が刑法の安易な厳罰化をためらうのは、刑法がヤコブスのいうところの市民による「控えめな戦争」のための「敵味方刑法」と化していってしまう、その先にある未来を憂慮しているのかもしれません。

 

(参考文献)

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2008/01/06

実況見分という毒のカプセル

ナゾ?の白バイ事故、警察の言い分通る 大谷昭宏 「裁判官の職務放棄だ」(J-cast news)
「大谷はさらに、「地方では、警察と裁判所の関係がよくいわれる。志布志事件でもおかしなことがありました。だから最近は、裁判報道でも裁判長の名前と顔を出そうということになっている」という。ちなみに、この裁判長は柴田秀樹氏。別の裁判でも、民間の証言より警察官の証言を重視していたと、番組はいう。」

刑事訴訟法の321条3項をごらん下さい。

321条

「3  検察官、検察事務官又は司法警察職員の検証の結果を記載した書面は、その供述者が公判期日において証人として尋問を受け、その真正に作成されたものであることを供述したときは、第一項の規定にかかわらず、これを証拠とすることができる。」

交通事故などでおまわりさんが現場を調べる作業のことを、法律用語ではなく実務用語で実況見分と呼んでいます。

その実況見分を法律的に表現すれば、場所、物または人についての形状を五官の作用で感知する処分を、任意処分として行う手続だと言い換えられます。

しかし一方で同じく五官の作用で感知する処分を、強制的に行うことを刑事訴訟法上、検証と呼んでおり、この強制作業を行うためには裁判所による令状の発行が不可欠です。

結果的に、令状の不要な実況見分という作業は令状の必要な検証という作業よりも迅速に実行できるため、証拠の散逸防止には役立つことになります。

ただ裁判所を介在させない任意捜査(197条1項但書、任意捜査の原則)である実況見分は、刀の返し方一つでまた危険な道具にも成り得ます。

よって学説上の通説、および判例理論によれば、実況見分調書には321条3項の検証調書と同様の要件が満たされることを待って、証拠能力が認められるということになっています。

具体的には、書面を作成した供述者が公判期日において証人として尋問を受け、その真正に作成したものであることを供述したときに限り、証拠能力が認められるのです。

さらにそれ以上に、実況見分調書なるものは、刑事訴訟法の321条1項3号の要件を充たさなければ証拠能力は認めらないとする厳格な学説も存在しています。

裁判官の令状を介在させない実況見分というシステムが生む調書には、もともと真正に作成されないかもしれないという可能性が孕まれているのです。

そしてその時、実況見分調書は裁判という人が一生懸命に構築したシステムの腹中に、毒を運ぶ糖衣にしかなりえません。

よってもし実況見分調書が真正に作成されていないことがあきらかになったなら、裁判所は実況見分調書に321条3項を準用することを否定し、その証拠能力を公判廷において認めてはならないはずのです。(以上参照:刑事訴訟法口述過去問集 早稲田セミナー編集)

戦争が終わるまで、検察官は裁判官と同じ壇上から、被告人を見下ろして糾弾する立場にありました。

しかし戦後憲法の改革を受け、検察官は一方で社会正義の実現という使命を受け、弁護人と同じ高さに降りて被疑事実の立証に励むことになり、裁判官は、検察官の立証に矛盾がないのかを、ことごとく潰していく新しい役目を請け負うことになりました。

もし大谷氏が指摘する通り、地方においてその役割分担が疎まれ、警察と裁判所が地方権力という一つの城に同居しようとしているとするならば、”新しい戦前”はそうした城から乱発される実況見分調書によって、露払いされながらやってくるはずなのです。

 

 

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