2008/11/03

NPO:美しく細い指

山口県市長会、互助年金法人解散へ(NIKKEI NET)

「山口県下の13市の元職員の退職金などを運用する財団法人「山口県都市職員互助会」が行う互助年金給付事業について、山口県市長会(会長・末岡泰義光市長)は、「公益法人の事業になじまない」と判断し、同法人を解散する方針を固めた。来年8月に開く理事会で解散を決議し、2010年2月までに清算手続きを終了する。12月に始まる公益法人制度改革を前に、都道府県認可の社団、財団法人のリストラが本格化しそうだ。これまで、財団法人などの設立許可や公益性の判断は、主務官庁の自由裁量に委ねてきた。しかし、今年12月1日に施行される「公益法人制度改革三法」により、民間の有識者委員会が「不特定かつ多数の者の利益」の観点で公益性の有無を審査する。新制度への移行を前に市長会は、「財団は特定者の資金運用を手掛けており、存続が困難」と自主的に判断。2つの金融機関との運用契約を解除し、解散する。 」


公益法人認定法の第二条四号をごらんください。

 

公益社団法人及び公益財団法人の認定等に関する法律

第二条(定義)

「この法律において、次の各号に掲げる用語の意義は、当該各号に定めるところによる。

四  公益目的事業 学術、技芸、慈善その他の公益に関する別表各号に掲げる種類の事業であって、不特定かつ多数の者の利益の増進に寄与するものをいう。」


わたしたちの暮らす社会では、ますます価値観が多様化し、行政や一般企業では解決に手の届かない問題が数多く取り残されています。

そこでより柔軟な対応を提供できる存在として、民間非営利部門、いわゆるNPOの役割がますます認識を重くされています。

かつての民法34条は、公益法人の官庁による許可制度を定めていましたが、判断基準の不明確などに批判がなされていました。

そこで民法の制度を改め、行政が民間有識者からなる合議制の機関の意見に基づき、その公益性を認定するとともに、認定を受けた法人の監督を行う制度を創設し、民間部門での公益的活動をもっと促進しようということになりました。

これが公益法人認定法です。

そしていったん公益法人と認定がなされれば、社会的な信用が獲得され寄付等の支援が受けやすくなるばかりか、法58条によって税制上の優遇措置の適用を受けることができるようになります。

このような特例措置が適用されるため、公益法人認定法は公的目的事業を、「学術、技芸、慈善その他の公益に関する別表各号に掲げる種類の事業であって、不特定かつ多数の者の利益の増進に寄与するもの」と定義しているというわけです。

このあたらしい秤を用いれば、”市の元職員の退職金などを運用する財団法人”では、この判断の範疇外となってしまうことになったわけです。

新しい基準を前にして戸惑っているのは行政機関も同じようですが、NPOという機能をわたしやあなたの社会に根付かせるためのシンポジウムも用意されています。

 

行政の太い指は、時に狭い隙間や難しい角度で救済を待っている問題までは、届かない場合があります。

そして今、公益法人という新しい社会実験が、新法の手厚い加護を用意され、たくさんの救済を待つ隙間へその指を伸ばそうをしています。

(参照:一問一答 公益法人関連三法





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2008/04/24

再上告:光市基準

「18歳1か月」の犯罪に極刑、変わる供述の信用性否定(読売新聞)
「裁判長は、元会社員の主張を「不自然で不合理」として次々と退けたうえ、「供述の変遷が見られ、虚偽の構築で、信用できない」と述べた。被害者を殺害後、乱暴したことについて、元会社員は「山田風太郎の『魔界転生』という小説で、乱暴することで復活の儀式ができるので、生き返ってほしいという思いがあった」と供述。これに対し、裁判長は「小説は瀕死(ひんし)の男性が女性と性交することにより、女性の胎内に生まれ変わるというもので、内容が供述と相当異なっている。生き返らせるためという供述は到底信用できない」とした。さらに、「復活の儀式」のために乱暴したとする点についても、裁判長は「生き返るということ自体、荒唐無稽な発想」と一蹴(いっしゅう)。「乱暴後、すぐに遺体を押し入れに入れており、被害者の脈や呼吸を確認するなど、生き返ったかどうか確認する行為を一切していない。被告が実際にこのようなことを思いついたのか、甚だ疑わしい」と供述の信用性を否定した。」

刑事訴訟法の405条をごらん下さい。

「第405条
 高等裁判所がした第一審又は第二審の判決に対しては、左の事由があることを理由として上告の申立をすることができる。
1.憲法の違反があること又は憲法の解釈に誤があること。
2.最高裁判所の判例と相反する判断をしたこと。
3.最高裁判所の判例がない場合に、大審院若しくは上告裁判所たる高等裁判所の判例又はこの法律施行後の控訴裁判所たる高等裁判所の判例と相反する判断をしたこと。」

判例法主義を採用しないわたしたちの社会では、判例というものは正式な法的拘束力をもっていません。

判例はあくまで判断の前例であり、法そのものとは規定しえないのです。

しかしながら判例というものの法解釈が、わたしたちの社会に予測性を与えることで事実上の拘束力を及ぼすこともまた現実です。

この意味で裁判所内で働く判例を統一しようという機能には、重要な意義があるといえます。

つまるところ判例というものは、法未満ギリギリを上限として、司法の村で代々唱え継がれる権威ある呪文以上の役割を担っているといえそうです。

たとえばかつてわたしたちの最高裁判所は、死刑の基準について、いわゆる「永山事件」で一般的適用基準を明らかにしています。

その内容は「死刑制度を存置する現行法制の下では,犯行の罪質,動機,態様ことに殺害の手段方法の執物性・残虐性,結果の重大性ことに殺害された被害者の数,遺族の被害感情,社会的影響,犯人の年齢,前科,犯行後の情状等各般の情状を併せ考察したとき,その罪責がまことに重大であって,罪刑の均衡の見地からも一般予防の見地からも極刑がやむをえないと認められる場合には,死刑の選択も計される」とするものです。

この呪文はわたしたちが法律にのっとって誰かの首を吊す手続きとして、これまで裁判官達に厳格に踏襲されてきました。

もし今回の元少年による光市母子殺害事件判例が、このいわゆる永山基準と相反する判断をしていると弁護団が判断するならば、一応そこには再上告の道が刑事訴訟法405条によって用意されているといえます。

判例というわたしたちの社会において重大な役割を担う装置に対する手当として、当然とはいえるでしょう。

しかしながら405条2号にいう「判例と相反する判断」とは,原判決に示された法律判断が比較の対象となる判例の法律判断と相反することをいうため、もし前提とする重要な事実関係が異なるときは比較対象の前提を欠くことになり、判例違反の主張が不適法と判断されることになります。

そして実際にはこの処理により不適法とされる場合が多いようです。(以上参照:条解 刑事訴訟法

扇動を報道に編み込むTV局や、被告人への苛烈な感情を口にする市民をして、愚呼ばわりすることは逆にたやすいといえるでしょう。

ただ何もかもを論ずるその前に、法はあるべくしてあり市民感情を高みから咀嚼するのか、そもそも社会をなんとか運営していかなければならいという市井の人々の感情群が理論をまとって法の起動と成熟をなさしめてきたのか。

そこに思いを及ばすことは、えらい人にもえらくない人にもいくらかの意義があるはずです。

 

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