2007/03/10

自尊というブレーキはオプション装備

研究費の半分以上余剰金に 厚労省の補助金詐欺事件  (熊本日日新聞)
「調べなどによると、厚労省は「障害保健福祉総合研究事業」として京都府内の大学の主任研究者に、2001-02年度で計約3000万円の補助金を交付。中村容疑者は当時の自分の部下2人に一部の研究を分担させるなどした。部下2人の研究には01-02年度で計約370万円の補助金が分配されたが、半分以上の約210万円が余剰金となり、非政府組織(NGO)レインボーブリッヂ代表代行の小坂博幸容疑者(54)=同容疑で逮捕=が社長をしていた会社との架空取引に回された。」

補助金等適正化法の第11条1項をご覧下さい。

補助金等に係る予算の執行の適正化に関する法律

第11条(補助事業等の遂行)

「1 補助事業者等は、法令の定並びに補助金等の交付の決定の内容及びこれに附した条件その他法令に基く各省各庁の長の処分に従い、善良な管理者の注意をもつて補助事業等を行わなければならず、いやしくも補助金等の他の用途への使用をしてはならない。」

補助金とは、行政主体が公益上の必要に基づき交付する金銭的給付をいいます。

補助金は行政の目的達成のための一手法として多様な用いられ方がされており、交付につき昔から不正が発生することから、その支出の適法性が問題とされてきました。

そもそも憲法は、「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない」として公金の流出に原則歯止めをかけています(89条)。

しかし一方で公益上の目的のために公金を特定の事業者に移転する必要がある場合も認め、補助金の交付や交付後の監督に関する規制法として制定されているのが補助金等適正化法です。

しかしそれでも役所が用意した現金を狙う人たちはいます。

そこで補助金等適正化法11条の規定に違反して補助金等の他の用途への使用又は間接補助金等の他の用途への使用をした人には、3年以下の懲役か、50万円以下の罰金が命じられ、あるいは併科されます。(30条)

補助金は、わたしたちが公益上の目的達成のため、国や地方から貴重な財源を事業者に移転することを許した特別措置です。

しかしその思いを、臆面なく懐に引き入れる輩もまたいつの時代も存在することを、補助金等適正化法は今後も予告しつづけます。

 

 

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2007/03/07

問われざる資格は覚悟

お手柄中学生 事故車から男性救出(KSBニュース)
「5日午後8時15分頃、 坂出市府中町の県道で右折しようとしていた軽自動車に、後ろから来た乗用車が追突しました。この事故で軽自動車は横転し、運転していた近くの藤田健さん(72)が車の中に閉じ込められ、後ろの燃料タンクから火が出ました。その直後に自転車で現場を通りかかった中学3年生の男子生徒が素手でフロントガラスをたたき割って、藤田さんを車から引っ張り出しました。その後車は炎上し、まさに間一髪の救出劇となりました。この事故で藤田さんが首などに全治1週間のけがをしたほか、中学生も右手に軽いけがをしました。」

民法の697条をごらんください。

第697条〔管理者の管理義務〕

「義務なくして他人の為めに事務の管理を始めたる者は其事務の性質に従ひ最も本人の利益に適すべき方法に依りて其管理を為すことを要す

管理者が本人の意思を知りたるとき又は之を推知することを得べきときは其意思に従ひて管理を為すことを要す」 

事務管理とは、近所の家が燃えているのを発見したのでドアを壊して隣家に入り助けるなどのように、法律上の義務がないのに他人のためにその事務を処理することをいいます。

しかし民法には、「人命を救助すべき場面においては、これを救助しなければならない」というような規定はありません。

一般的な場合を別として、他人の緊急な危難を目撃し、しかもこれを救助するだけの能力と余裕とを有する人には、法律上これを救助すぺき義務があるとできる法理論的な余地は見つけられます。

現に、水難救護法は、遭難船舶を発見した者は遅滞なく最近地の市町村長または警察官吏に報告すべき義務があるものとし、また、船員法は、船長に対し、他の船舶または航空機の遭難を知ったときは、人命救助の義務があるものと定めています。

たしかにこれらは、いずれも、管理者の本人に対する私法的義務ではなく、管理をなすべき公法的義務の設定です。

しかし、放任行為とされている事務管理が、特殊の場合に強制的な行為とされている法の場面だと見ることも可能です。

それのみならずこの思想は、社会共同生活における道徳的規範として、これに違反する行為・不行為は違法性を帯びるものと法で定めることによって、間接に強制される場合のあることを知らしめています。

例えば、ドイツ刑法が、一定の急迫した犯行の存在を知ってこれを官憲または被害者に告知しないことを犯罪とするのは、この思想の一顕現であるといわれます。

わたしたちの国でも明治時代、お寺の所有者に解雇された病人が、その寺の境内にある千仏堂に無断で入り込んで寝臥していたのを放置し死なせてしまった事件がありました。

このとき大審院は所有者を遺棄罪に問擬し、次のように結論づけています。

「肺結核病の為め身体衰弱し、業務に服する能はざるは勿論、他の扶助を受くるにあらざれば生存する能はざる状態に陥り被告等の住所たる教信寺境内千仏堂に寝臥し居たるものなるを以て、たとえ被告等に法令もしくは契約に基く扶助の義務なしとするも、之を扶助せずして遺棄するが如きは、善良の風俗を害することの甚しきものにして、刑法における疾病の為め扶助を要する者を遺棄したる者に該当すること論をまたず」

この判例は状況次第で事務管理が潜在的義務となることを認めたものだと読むことも可能です。

[以上参照:民法講義〈第5 第3〉債権各論 我妻栄 岩波書店]

業火を前にした中学生の私が、もし同じように車の中にご高年を見つけたら、同じようにフロントガラスを拳で叩き割ることができたものか、全く自信がありません。

しかし事務管理という思想が、社会という同じ船にのる乗組員として潜在的に課せられている義務なのだとすれば、ためらいなく自分の拳を人命救助に使った中学生には、誰よりもその自覚があったといえます。

わたしたちは年若き人がそのような無意識の覚悟をもっていたことに、心が動かされているのです。

 

 

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2006/04/29

上野石之助さん、いつまでもお元気で

元日本兵の上野さん、ウクライナに出発(朝日新聞)
「ウクライナから63年ぶりに一時帰国していた岩手県洋野町出身の旧日本兵、上野石之助さん(83)が28日昼、10日間の日本滞在を終えて成田空港からウクライナへ向けて出発した。付き添いの長男アナトリーさん(37)とともに搭乗手続きを終えた上野さんは、「新しい家ができて、道路もきれいになって、故郷の外見は自分の思い出とはすっかり変わっていた。美しい、すてきな国になった日本を見ることができた」と短い滞在を振り返った。空港には弟の左舘丑太郎さん(81)と妹のタケさん(69)も見送りに訪れた。「弟妹にあえるなんて思ってもいなかった。また帰りたい気持ちはあるが、年だからたぶん無理だろう」。20日に岩手入りして再会を果たしたばかりの弟妹たちと、目に涙をにじませて別れを惜しんだ。 上野さんは樺太で終戦を迎えた後、現地で暮らしていたが、58年に消息が途絶え、00年に戦時死亡宣告が確定した。東京家裁は滞在中に上野さんと面接して宣告の取り消しを決定し、削除された戸籍は近く回復される。」

未帰還者に関する特別措置法の第2条をご覧下さい。

第2条(民法第三十条 の宣告の請求等の特例)

「未帰還者留守家族等援護法第2条第1項に規定する未帰還者に係る民法第30条の宣告の請求は、厚生労働大臣も行うことができる。

2 前項の請求をする場合には、厚生労働大臣は、当該未帰還者の留守家族の意向を尊重して行わなければならない。

3 第一項の規定による厚生労働大臣の請求に基く民法第三十条 の宣告の取消の請求は、厚生労働大臣も行うことができる。」 

未帰還者とは、未帰還者留守家族等援護法第2条においていう、もとの陸海軍に属していた人であって、まだ復員していない人か、未復員者以外の人であって、昭和20年8月9日以後旧ソビエト等で生存していた資料があり、且つ、まだ帰還していない人等をいいます。

太平洋戦争が終結しても帰還できなかった人のおよそ四分の三は当時から生死が明らかでなかったといいます。

未帰還者の問題は、その留守家族に対する揺護措置とともに多くの論議をおこし、昭和34年最初の「未帰還者に関する特別措置法」が施行されることになりました。

この法律のもっとも重要な点は戦時死亡宣告の請求を変則させたところにあります。

すなわち、従来未帰還者の戸籍処理の方法としては、戸籍法の第89条に基づいて取り調べをした官庁が死亡報告をすることによるか、あるいは民法の第30条に基づいて未帰還者の利害関係人が失踪宣告の請求をすることによるかの二つしかありませんでした。

しかし最終消息が判明しない未帰還者については前者の方法では処理できず、かといって後者の方法では、留守家族が自分の手で請求しなければならず、愛する夫や父を待つ家族が自らそのような請求をするという事例としては極めてわずかでした。

このため、この法律においては生死が明らかでない人のうち、諸般の事情で現在生存していないと推測される人とについては、留守家族に代わり厚生労働大臣から失踪宣告の請求ができることとしたのです。

(参照:厚生労働省ホームページ 白書データベース

デ・シーカの名画「ひまわり」では、若い夫婦が第二次世界大戦に運命を狂わされます。

戦争が終わっても帰国しない夫をロシアまで探しに行った妻が、命を助けてくれた女性と別の家庭をもっていた元夫を発見、打ちひしがれてイタリアに帰国します。

元妻が自分を求めている事を知り、新しい妻をロシアに残したままなけなしのお金をはたいて買った土産の帽子もって帰国した元夫もまた、その後元妻が新しい夫との間に子供をもうけていたことを知ります。

今も変わらず愛し合っている二人が駅で別れるラストシーンの本当の残酷さは、大人なら誰でも理解できます。

一旦国家に戦争をはじめさせてしまったら、私たちは絶対に悲劇から逃れることができません。

旧日本兵だった上野石之助さんも83才までまってやっと祖国の地を再び踏むことが出来ました。

しかし未帰還者特措法第2条による戦時死亡宣告は取消されましたが、ウクライナで待つ家族のために、そのまま日本にとどまることはできませんでした。

わたしたちにはっきりわかっていることは、わたしたち自身の時計は絶対に巻き戻せないこと、そしてその時計は最後にかならず止まってしまうということだけです。

あなたやわたしが開戦を決定する人物や閣議からどのくらい関わりのない位置で生活しているのかではなく、わたしやあなたの時間は決して巻き戻せないのだということにだけ焦点を合わせて事態をコントロールしようとすること。

デ・シーカの名画で揺れたたくさんのひまわりと、美しくなった祖国を離れざるを得ない上野石之助さんの笑顔が、そのことの大切さを深く教えてくれています。

 

 

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2006/04/12

「顔」の表す証拠性と絶対他者性

42年逃亡、マフィアの大ボスを逮捕 イタリア警察(朝日新聞)
「イタリア内務省は11日、42年以上も逃亡してきたマフィアの「ボス中のボス」とされるベルナルド・プロベンツァーノ被告(73)を警察が逮捕したことを明らかにした。同被告は「マフィアを撲滅できないイタリア」のシンボル的な存在で、マフィア担当の検事らが執念深く追跡してきた。同被告は映画「ゴッドファーザー」のモデルとして世界的に有名になった故ルチアーノ・リッジョの部下で、六つの終身刑を受けている。93年からシチリア・マフィアのトップになり、逃亡中も複数の手下らが手渡しで運ぶメモによる指示などを通じて多大な影響力を保ったといわれる。同被告を裏切ったとされる部下が報復におびえ、取り調べ中に自殺したことも。」

刑事訴訟法の200条1項をご覧下さい。

第200条〔逮捕状の方式〕

「逮捕状には、被疑者の氏名及び住居、罪名、被疑事実の要旨、引致すべき官公署その他の場所、有効期間及びその期間経過後は逮捕をすることができず令状はこれを返還しなければならない旨並びに発付の年月日その他裁判所の規則で定める事項を記載し、裁判官が、これに記名押印しなければならない。」 

日本の刑事訴訟法上、逮捕状には200条にある通り、被疑者の氏名及び住居,罪名,被疑事実の要旨,引致すべき官公署その他の場所,有効期間及びその経過後は逮捕をすることができず令状はこれを返還しなければならない旨並びに発布の年月日その他裁判所の規則で定める事項が記載されます。

このときもし被疑者の現氏名が分からないなら、身長や性別、傷や入れ墨など特定するに足りる事項を記載します。

人権の最後の砦、裁判所が納得すればこれに許可印が押されます。

しかしもし氏名がわからないとき、被疑者の写真が入手できたならば、これを逮捕状に貼るほうがもっとも人権侵害を予防する意味ではむしろ確実であり、現実に実務の運用もそのようになっているようです。

逮捕に際して逮捕状がいちいち要求される趣旨は、それなしでは戦前のごとく不当逮捕が量産され、逮捕された人も刑事訴訟法上何についてどのように防禦すればよいのか検討もつかないからであり、その重要性はわざわざ憲法33条に明定されているほどです。

イタリアで捕まったマフィアの最高実力者の顔をよくご覧下さい。

日常生活ではまずお目にかかることができないような、他者によるコントロールを一切拒絶するという強烈な意思を両目の奥に灯している顔です。

エマニュエル・レヴィナスは主著『全体性と無限』の中で、「私が殺すことを欲しうるのは、ただ絶対的に独立した存在だけである。つまり、私のさまざまな権能を無限に踏み越え、しかもそのことによって私の権能に対立するのではなく、なにかをなしうることの権能そのものを麻痺させる存在だけなのである。<他者>は、私が殺すことを欲しうるただひとつの存在なのだ。」という言葉で、決して手の届くことのない「他者」という存在の本質を表現しています。(出典:「全体性と無限」 下 レヴィナス 岩波文庫)

全面否定したいならば殺人を、意のままにコントロールしたいなら暴力をという反社会的アプローチで「他者」という絶対外部にたいして接してきた彼の73年間は、彼の顔つきを常人には理解しえないほどに険しく作り上げています。

逮捕状にたとえ本名がなくとも、この顔写真さえあったなら捜査当局は大勢のなかからでも必ず彼を特定できたでしょう。

そして彼の73年かけてつくりあげた「顔」は、逆説的にまた平凡な社会に暮らすわたしやあなたに「他者」という言葉の持つ永遠の距離を再考させるに十分な資料を、まるで彼自身の人生から提供しているかのようです。

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2006/04/08

金魚すくいにおけるタクシスとコスモス

無念…金魚すくい大会優勝取り消し処分無効訴訟ヤブれる(サンスポ)
「奈良県大和郡山市であった金魚すくい大会でルール違反をしたとして優勝を取り消された埼玉県熊谷市の男性が、主催者の「全国金魚すくい競技連盟」に処分の無効確認などを求めた訴訟の判決で、奈良地裁は7日、男性の請求を棄却した。阿部静枝裁判官は判決理由で「男性は外部から隠して持ち込んだポイ(和紙のすくい網)を使用したと認められる。競技の公正を図る上で重要な違反行為」と述べた。判決によると、男性は平成15年8月に開催された「第9回全国金魚すくい選手権大会」の団体戦で優勝したが、ビデオにより、男性が準決勝でタオルとうちわの間に用具を隠し持ち込んでいたことが発覚。主催者は優勝と過去2回の個人戦での優勝記録を取り消し、永久出場停止処分とした。男性は「予選で用意された用具を使用し『主催者が用意した物』という大会規定には反しない」と主張していた。」

憲法の89条をご覧下さい。

第89条〔公の財産の支出利用の制限〕

「公金その他の公の財産は,宗教上の組織若しくは団体の使用,便益若しくは維持のため,又は公の支配に属しない慈善,教育若しくは博愛の事業に対し,これを支出し,又はその利用に供してはならない。」 

たとえば一つの条文の意味を解釈するにしても、その解釈方法により、吐き出される結果はかなり異なってしまうこともあります。

たとえば憲法89条後段は公の支配に属さない教育事業への公費支出を禁ずる一文ですが、その「公の支配に属さない」ことを通常通り文言解釈すれば「国公立でない学校」ということと解するのが素直です。

しかし現実には私学に対しても国家は多大な予算を与えています。

これは高校、あるいは大学という教育機関に対して国費で援助するということに非常に大きな意義があるため、本来およそ「公の支配」にあるとは思えない私的な事業、私学への援助をも、公の支配の意味を相当程度拡大解釈している例です。

ひとつの時代に条文という限られた文字数に込められた思いを、各時代時代で正確に再現していくためには、人にとっての幸福の意味をいつもさぐりながら条文解釈を展開することが必要になります。

私的事業といえども国が教育の現場に公費を与えていくことがあなたやわたしにとって幸福であるならば、条文に縛られることなく解釈していく必要があります。

経済学者ハイエクは「法と立法と自由」のなかで、秩序には計画的に策定された「組織のルール」(タクシス)と、自己増殖的に現れた「自生的秩序のルール」(コスモス)の二種類があることを言及しています。

そして自生的秩序のルールのほうが、誰もその特定のまたは具体的な内容を知りもしないし予見もしない、一つの抽象的な秩序を目指すことを意味する一方、組織のルールのほうは、その組織の命令者が目指す特定の結果に資することになるのだとしています。

そのうえで一見不明瞭な自生的秩序こそが、「目的」を超えた「成長」を社会にもたらしてきたのだと解析しています。(ハイエク全集8 法と立法と自由 ルールと秩序 春秋社)

ハイエクに習えば人の集まりは、フェアプレイを要求する条文がないことで、自生的秩序がフェアプレイの空気を作っていくことになります。

金魚すくいで3年連続チャンピオンだったはずの人が原告になった訴訟は彼からチャンピオンの称号を全て剥奪した処分を有効としました。

原告の主張は「全国金魚すくい競技連盟標準公式規程には”用具は全て主催者において用意したものを使用するものとする”とだけあり、予選で主催者が用意した用具を本戦に隠し持っていたからといって文言解釈すればルール違反とはいえまい」というものだったようです。

奈良地裁は不正を認定しましたが、その前にそもそも、競技規定を文言解釈するということ自体が、金魚すくいという風流な行為を愛する小コミュニティの自生的秩序が目指す場所とは全く別のところに向かうベクトルであることを文脈として認定しています(私見)。

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2006/04/06

空手家の遺言と山中の見えない秘伝書

シンガポール武道家一族:空手家探し青森の雪山へ(毎日新聞)
「事情を聴いたところ、亡くなった武道家はシンガポールで空手などを教えていた。しかし、2人の息子は武道に興味がなく、道場にあった「空手の秘伝書」も弟子の一人に盗まれてしまった。後継ぎ問題に苦慮した武道家は死の間際、「青森県の相馬村に極真空手の伝承者がいる。彼に会い、秘伝書を譲り受けてほしい」と遺言したという。」

民法の960条をご覧下さい。

第960条〔遺言の要式性〕

「遺言は,この法律に定める方式に従わなければ,これをすることができない」

遺言とは、人の最終の意思を尊重し、死後その意思の実現を保障するための制度における、その意思をいいます。

遺言とは、つまるところ私有財産制度の財産処分の自由の延長に存在する制度です。

しかし一方でそれを偏重することは、生きゆくものの財産や身分関係に大きな影響を与えますので、遺言に無制限な自由を与えるわけにはいきません。

つまり遺言という制度を解体すれば、法哲学上かなり難しい問題を含んでいることがわかります。 [参照:自由国民社 図解による法律用語辞典]

そこで民法は相続分の指定(902条)や認知(781条2項)等、限られた範囲にだけ遺言の効力を許し、それ以外の事項についての遺言は日本の民法上効果を認めず、遺訓とのみ呼ばれることになり、もはや道徳的な効力しか発揮しないことにしています。[参照:法律学小辞典 有斐閣]

さらに民法960条は遺言に厳しい形式要件性を要求し、それを外れた遺言に効力を認めないことで生きゆく者の生活を死にゆく者の言動でむやみに乱されないよう防禦しています(私見)。

シンガポールの空手家の遺言は、残された家族を日本まで渡らせ、雪山で遭難までしかける事態を招来しました。

彼の国の家族法はきっと強力な遺言の強制力を認めているのか、あるいはとても家族に愛されて亡くなったお父さんだったかのどちらかであるはずです。

今現在雪山の山中に、遺言された空手家や秘伝書は存在していないそうです。

空手家の遺族が、秘伝書やそれに準ずる絆を伝説の空手発祥の国で見つけることができるかどうかは、ニュースを知った日本人空手家相互間のネットワークの自由意思に委ねられています。

遺言の真意も案外そんなところにあったかもしれません。

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2006/03/31

耳障りのいいフレーズでお互いを縛ろう

フランス:学生らが駅や高速道路一部占拠、交通機関が混乱
「サン・シャルル駅を占拠する学生ら=ロイター 【パリ福井聡】フランス各地で30日、「初期雇用契約」(CPE)に反対する学生たちが鉄道の駅や高速道路を一部占拠し、交通機関が混乱した。南部マルセイユでは国鉄のサン・シャルル駅を学生200人が占拠し、列車が発車できない状態となった。学生らは北部リール、北東部ダンケルク、北西部ナント、アンジェなどでも高速道路や一般道路の橋を占拠した。」

東京都公安条例の第1条をご覧下さい。

集会、集団行進及び集団示威運動に関する条例

第1条

「道路その他公共の場所で集会若しくは集団行進を行おうとするとき、又は場所のいかんを問わず集団示威運動を行おうとするときは、東京都公安委員会の許可を受けなければならない(以下略)」 

デモ行進、いわゆる集団示威運動の自由は、固有の思想・信条・意見の表明を多数人が集団示威することで関係内外に強くアピールし、そのことでより乾いた意見を呼び込める点に意義があります(私見)。

現代ではその多くは各地の地方公共団体によって制定されている公安条例が管理し、戦前の治安警察法4条の「届出」よりも文言上厳しくなった「許可」が実行の要件となっています。

現代憲法にも「集団示威運動の自由は保障する」という条文はありません。

それは単に表現の自由の一形態として、憲法21条の保障が及ぶだろうと、学説上考えられているだけです。

最高裁の判例も公安条例によるデモの規制を合憲としています(許可制は実質上の治安維持法であるという強い批判もあります)。

統治する人達は、デモというものを完全自由にすれば、社会に気づかれざる不満が蔓延している場合、それに気づかせる火種になってしまうことを十分理解しています。

物理的に人が一種の騒動を起こす絵面が、単に文献やインターネット上の論議より大きな波及効果をもたらすのです。

インフォメーション・テクノロジーがどれほど進展しようとも、デモ行進のそうした真価は未だ失われることはなく、人権を発見した土地、フランスだからこそ今も身体レベルでそのことが理解されているのだといえるでしょう。

わたしやあなたの暮らす国でデモが許可制になり、それが活発に用いられなくなってから数十年が立ちました。

かくいう私もそういったものには参加した経験がありません。

しかしながら、いつのまにかガラガラを与えられて機嫌良くさせられているだけではないのか、確認する手立ては残されています。

他人の言葉を捨て、自分の感情に耳を傾けることだけは、今のところ誰にも許可を得る必要はないからです。

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2006/01/27

一夫多妻制を採用した家族と、人類の選択

一夫多妻男は元自衛隊幹部名乗り脅す(日刊スポーツ)
「 一夫多妻制のような集団生活に加わるよう専門学校生の女性(20)を脅した事件で、脅迫容疑で逮捕された無職渋谷博仁容疑者(57)が「私は自衛隊の元幹部で、周りにはスパイがいる」などと被害女性に話していたことが26日、警視庁捜査1課と東大和署の調べで分かった。」

民法の732条をご覧下さい。

第732条〔重婚禁止〕
「配偶者のある者は,重ねて婚姻をすることができない。」 

民法732条は重婚というものを禁止し、日本では一夫一婦制以外の婚姻を認めないことを宣言しています。

しかしなにもそれは人間社会の絶対原則ではなく、世界は広いもので一夫多妻制を堂々と認める国があることも確かです。

それでは何故我が国では一夫多妻制は認められていないのでしょうか。

法律を材料に少し考えてみます。

民法は一夫一婦の枠組みに入らない人間関係、たとえば本妻と別にいた愛人とご主人が法律行為でもめたとき、「そもそも公序良俗に反する」として関係者間の法律行為を無効にすることにしています(90条)。

公序良俗違反を反社会性で類型化すると、犯罪にかかわる行為、取締規定に反する行為、人倫に反する行為、射倖行為などが上げられます。

このうち一夫多妻、すなわち本妻の他に愛人契約をするような婚姻秩序・性道徳に反する契約を無効とするのが人倫に反する行為という類型です。(参照:内田貴 民法Ⅰ 東京大学出版会

つまり私達は一夫多妻制を見るとき「人倫に反する」ため、社会的妥当性を欠くと法律的に表現するのです。

ではそもそも、なぜ現代に生きる私達は一夫多妻制を人倫の反するものと感じて「納得できない」と感じるのでしょうか。

もともと一夫多妻制は哺乳類によくみられる形態で、人間とて、そのお仲間の一部に違いはありません。

人間と他の哺乳類との決定的違いとして、女性(メス)に発情期があるのかないのかという点があげられるのだとか。

発情期というものがない、すなわちいつでも男性を受け入れることが可能な人間の女性が、いったん世の中を強い権力構造が支配する男系社会に誕生したと仮定してみてください。

貴族や財閥が散在したそうした社会では、獲得した優越的地位や蓄積した財産を相続させるために、妻以外にも愛人をたくさんとりそろえて自身の遺伝子伝達のいろいろなバージョンを可能にする一夫多妻制が自然と容認されるようになります。

事実過去の日本でも、またあのモラルの厳しいキリスト教社会でも、建前はともかく事実上として有力者が妻とその他の愛人を囲うという社会的事実を認めてきた時代があったのだとか。

一夫一婦制の社会では、各家庭に「男子は家庭を守れ、女子は子供を産み育てよ」という平均化された職分が社会的圧力を伴って与えられます。

対して一夫多妻制の社会では、男子にはそれ相応の器を、女子には一人しかいない男子の寵愛を受けるため飽きの来ない真の才能を要求されることになります。

そして家庭を持つことにあぶれた男子の大きな割合が聖職者や僧侶、その他家族を養う必要のない身分となり、各地に非生産的な、すなわち文化的な成熟をもたらす要因となります。

動物行動学からいえば、非凡な才能を排出するためにはむしろ一夫多妻制のほうが適しているとさえいえるのだそうです。(以上参照:竹内久美子「賭博と国家と男と女」

しかしそれにもかかわらず現代の多くの文明国家の法律が婚姻の原則を一夫一婦制であると定めています。

思うにそれはきっと私達の歴史が一夫多妻制のような突出した部分をもつ社会の問題解決能力に見切りを付け、もっと見晴らしのいい整地された世の中を望んできたからなのかもしれません。

現に多くの国の憲法は、特定の人達に権力が集まる時に、それが濫用されることを警戒することをその主眼にしています(国民主権原理)。

現代の人間とは、少数の突出した才能(いわば点)の産出にその繁栄の鍵を託すことよりも、一夫一婦制によって生み出されるたくさんの平均化した人間のつながり(いわば面)によって、生存を阻む諸問題を解決していこうという選択をした生物の一群なのではないでしょうか(私見)。

そうだとすると面による解決を採択をしてきた人間社会で、逆行するような一夫多妻制をとる集団をみつけたとき、私達の胸の中に芽生える「社会的に不相当である」という感覚は、案外無意識下の歴史的記憶が呼びかけている可能性も考えられます。

法律が個人の尊厳に覚醒したことは、アイロニカルにいえば偉大なる凡庸の量産という生物学的安全装置を私達が受容したのだといいかえられるでしょう。

公序良俗、すなわち法学上で「社会的妥当性」と呼ばれる時代の判断基準が、どんどん「旦那の回りに愛人が数人」といった状況を社会に許さなくなってきているのは、人間という種族全体が生存をかけて集合意識下でなした決断によるものなのかもしれない、などと思ったりするのです。

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2005/12/06

美しい女優の死と民法のトラックバック

原ひさ子さんが死去 名おばあちゃん女優(徳島新聞)
「映画、テレビドラマなどの脇役として活躍、「日本のおばあちゃん」として親しまれた女優の原ひさ子(はら・ひさこ、本名石島久=いしじま・ひさ)さんが4日午後9時32分、心不全のため東京都荒川区の病院で死去した。96歳。」

民法の882条をご覧下さい。

第882条〔相続開始原因〕

「相続は,死亡によって開始する。」 

人は生まれればすぐ民法1条の3をもって私権の享有を認められ、この社会で財産を殖やしていくプレーヤーの一員であると認められます。

6歳になれば学校教育法22条がその保護者に義務教育を受けさせる義務を負わせます。

そして男性は18歳、女性は16歳になれば民法731条が婚姻の資格を与え、20歳になれば公職選挙法の第9条により選挙権が与えられます。

その後40歳になれば介護保険法10条が介護保険被保険者の資格取得を認め、60歳になるまでは高年齢者等の雇用の安定等に関する法律の8条が事業者から定年にされることを保護してくれます。

65歳になれば国民年金法がその26条で年金の支給を宣言しますし、最期に、お亡くなりになると民法はその882条によって相続の開始を宣言します。

すなわち人の死は民法上、「相続の開始」として表現され、故人そのものは民法の直接考慮対象から外されることが宣言されるのです。

(ただし亡くなった方が全て法律の考慮から外されるわけではなく、たとえば著作権は、著作権者の死後50年間保護されることになっています(著作権法51条2項)。)

いうまでもなく民法は、”生きている人同士が、どうやって幸福になっていくか”のためのルールですので、故人へのケアは”残した財産の移行、すなわち相続”という形でしか術を持ちませんし、残された社会のためにもその財産に対する権利の空白を許しません。

あなたやわたしが明日社会からいなくなってもその発展を辞めさせないために、民法は生きている命だけに対して要所要所でトラックバックしつづけていくのです。

原ひさ子さんという、老いて尚とても美しかった女優さんがお亡くなりになりました。

民法882条自体は、既に原さんを直接の考慮対象としないことを宣言しますが、そのことと我々が故人の女優として残されたやわらかい歩みを賞翫することはまったく別の次元にあります。

自分のルールで生きた人のカタチは、名前のない遺産を常に後人全てに残していってくれているのです。

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2005/12/01

イリーガル・エイリアンが飲まざるを得ない重石

広島小1殺害:自称「日系」に疑問 ペルー人社会の反応(毎日新聞)
「広島女児殺害事件で「日系3世」を自称するペルー人、ピサロ・ヤギ・フアン・カルロス容疑者(30)が逮捕されたことについて、ペルーの日系人の間では「聞いたことのない名前だ」「本当に日系人か」との疑問の声が上がっている。「日系人」の偽造書類を手に日本に渡るペルー人も多く、首都リマのペルー日系人協会は同容疑者に関する情報の収集を急いでいる。」

法務省告示第132号をご覧下さい。

出入国管理及び難民認定法第七条第一項第二号の規定に基づき同法別表第二の定住者の項の下欄に掲げる地位を定める件

「出入国管理及び難民認定法第七条第一項第二号の規定に基づき、同法別表第二の定住者の項の下欄に掲げる地位であらかじめ定めるものは、次のとおりとする。
(一~三まで略)
四  日本人の子として出生した者でかつて日本国民として本邦に本籍を有したことがあるものの実子の実子に係るもの(以下略)」

出入国管理及び難民認定法、通称入管法は、査証の種類を七つに分類しています。

そのうち仕事をしてもかまわないのが(1)外交査証、(2)公用査証、(3)就業査証で、極真っ当なピカピカのビザであり、逆に言えば生活に苦しい人達が日本に出稼ぎに行こうとする場合には非常に入手が難しいものです。

続いて仕事をしてはならないとされているものが(4)一般査証、(5)短期滞在査証、そして(6)通過査証です。

これらの、いわゆる一般のビザを取得した人が日本で働けば不法就労ということになり、重罰が待ちかまえています。

最後に残った(7)特定査証ですが、これは日本での活動に特に制限のない裏技のような在留資格です。

その資格者は三種類で、まず日本人の奥さんや旦那さんになった人。

つぎに永住者の奥さんや旦那さんになった人。

最後に定住者と呼ばれる分類にあたる人達であり、これが法務省告示第132号をもって難民の方々や日系の2世・3世等だと指定されています。

すなわち、ペルーがたとえ経済的に危機にあったとしても、そこに暮らす人が日系三世までであれば日本に来て「定住者」という査証のもと堂々と仕事をし、母国に仕送りをすることが許されるのです。

1990年に入管法は改正され、日系3世やその配偶者をも別表第2にいう「定住者」として、日本で就労することを合法であることにしました。

それは国家が保護しなければならない「日本人」の定義を人道的に拡張するとともに、出生率の低下で確実に日本を待ちかまえている労働力の圧倒的不足という問題を補っていくために、法がそれまでの態度を超えて踏み出した第一歩だったのだと思います(私見)。

事実改正以降、定住者として世界中から日系人の流入が続いていますし、いろいろな現場で外国人の人が働いているすがたをみることはもはや珍しいものではなくなりました。

入管法の改正は日本国と移民の双方に一定程度の幸福をもたらしたはずですが、異なる文化をもってやってくる人達の孤独や混乱はないはずもありません。

私自身があまり恵まれていない環境の下、数年間異国で暮らしたことがありますが、その孤独やこのままでは死ぬかも知れないという思いは、準備万端整えて制度的にもしっかり守られたまま留学する学生や赴任者には最後まで理解し難いものがあるでしょう。

海外においても相当程度の日本人が、イリーガルに労働しているとささやかれるのとちょうど鏡映しのような状況が、外国人労働者に開国を始めたこの日本でも起こり始めているとしても不思議ではありません。

ただしそのような”選択した孤独”に暮らす人達が全て凶行に走るはずもなく、外国人労働者という属性を安易に事件の特異性に結びつけようというのはあまりにも安易だといえます。

更にピサロ・ヤギ・フアン・カルロス容疑者が本当に「定住者」の資格をもつ日系三世だったのかを疑われているそうですが、同じ理由で「日系人でなければ、更にさもありなん」という主張を文脈上読み取らせようというのならそれもまた危険なことです。

ほとんどの海外で働く人達はどのような状況下であろうとも、いやむしろ状況が恵まれないほどその孤独に折り合いをつけながらなるべく問題を起こさないように暮らそうとしており、彼らの状況や属性は事件に対する装飾語以上に評価してはならないからです。

そしてそういったものをことさらに事件の特性と結びつけようとすることは、私達自身がとった入管法の特定査証に関する新しい時代の決断をも侮辱してしまうことを意味しています。

もしそこにピサロ容疑者の特質以上の環境的問題があるならば、双方が一定の幸福のために納得して選択した道である以上、属性を指さすのではなくお互いが問題の解決にあたらなければなりません。



木下あいりちゃんのご冥福をお祈りします。

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2005/10/26

同時多発テロを利用した日本人詐欺師と恥という対価

日本人2人、米に引き渡し 同時多発テロめぐる詐欺容疑(朝日新聞)
「法務省によると、2人は01年10月から02年5月にかけて、テロ事件による転居などで損害を受けたと偽り、民間慈善団体から約150万円の被害支援金をだまし取ったほか、米中小企業庁から被害支援ローン約1億円をだまし取ろうとした疑い。」

日米犯罪人引渡条約の第5条をご覧下さい。

日本国とアメリカ合衆国との間の犯罪人引渡しに関する条約

第5条

「被請求国は、自国民を引き渡す義務を負わない。ただし、被請求国は、その裁量により自国民を引き渡すことができる。」

通常、どこの国でも他国への犯罪人を引渡す義務などありません。

いちいち他国の司法論理で自国民を引き渡していたのでは国家に主権はないに等しく、個人の人権の保障もあやうくなるからです。

それが行われるのは、犯罪人引渡条約か、国際的なおつきあいによるときです。

ただしそれが軽微な罪では引渡すことはありませんし、たとえば韓国で今も問われる姦通罪では、日本がその罪を既に廃止している以上、韓国に引き渡すことはありません。

そうでなければ、文明国刑法の基本原則である罪刑法定主義の有り様を描き出すことができないからです(私見)。

これが日米犯罪人引渡条約の第2条、双方可罰の原則です。

詐欺は日本の刑法でも10年以下の懲役が定められている非常に重い罪であり、他国へ引き渡す時の双方可罰の原則を侵害するところではありません。

行為者にあっては、そうした重大な行為が他国に置いても重罰に処せられることを知っていて然るべきだからです。

今回の男女は、大規模なテロルによって他国の国家が騒然としながらも、再度立ち上がろうとするその狭間を狙って補償金をかすめ取ろうとした疑いがもたれています。

かつて日本人が遺伝子情報のスパイだと疑われた事件では、東京高裁が「罪を犯したと疑うに足りる相当な理由があるとは認められない」として引渡不可の決定を出しました。

日米犯罪人引渡条約5条本文を行使し、主権の影を濃く見せたといえます。

その事例に比べ、今回は我が国の高裁によって審議され、かつ法相が引渡に許可を出した以上、嫌疑は非常に濃厚であるといえそうです。

自国民をわざわざ自国の刑事司法から外して、他国の刑事司法に引き渡すなら、その前にどれほど慎重な事実認定があったかは押して図れるというものです。

詐欺というのは「騙そうとしてする行為」が構成要件として要求されますので、詐欺があるところには行為者の上手く騙せると踏んだ計算が存在したはずです。

しかし結局のところ、海の向こうで復興しようとする志をだまし取るような人が手に出来たのは、自国からの刑事司法的放出と、他国の刑事司法による断罪という二重の辱めだけだったようです。



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2005/10/05

愛人17人のために19億円を横領した男と罪のプライスタグ

着服19億円 愛人17人に使う(スポニチ 2005/10/05)
「被告は、主に飲食店で知り合った20代から50代の女性と交際し、生活費を渡していた。多数の女性と付き合いたいという願望が強く「たくさん性交渉をしたかった」とも供述。愛人らに3人の子供を産ませているという。また検察側は、被告が90年から計約19億円を横領し「組合員を愛人の手当を出してくれるスポンサーと思い、罪悪感はなかった」と供述したことを明らかに。17人の愛人の2人がそれぞれ2億円以上を受け取ったと指摘した。」

刑法の253条をご覧下さい。

第253条〔業務上横領〕

「業務上自己の占有する他人の物を横領した者は,10年以下の懲役に処する。」

ここにどうしても自分の欲望が社会に抑えつけられることの意味が理解できない人がいたとしましょう。

彼は刑法の業務上横領罪の項目を開きます。

すると日本の刑法では「業務上横領をしたら最高で10年は入ってもらう」と書いてあります。

ここで行為予定者の決意が固く、「よし、最高で10年入るつもりなら刑事上はどんどん横領していいんだな」と解釈されてしまったら国の安寧はどうなるのでしょう。

民事上も、使ってしまって、手元にないお金は返しようがありません。

もしそうした意識を持つ人達が社会科学上想定される割合を超えて増えてきた場合、刑法はその意味を徐々に失っていきます。

現実に経済の不安から犯罪が絶えず、刑務所の定員が数倍にふくれあがり、外と内どちらが刑務所なのかわからなくなってしまっている国もあります。

腹をくくった欲望に忠実な人に対しては、刑を重罰化することでは予防効果を期待することはできないということになるのです。

かつてカントは法は個人の道徳に干渉することは許されないと考えました。

つぎにカントの思想から絶対性を排除したのがフォイエルバッハであり、合理主義的な一般予防を中心とした目的刑論を展開しました。

フォイエルバッハは「残虐な刑罰による威嚇は許されないが、犯罪より多少多めの害悪を刑として刑法に書いておくことで、人はより合理的判断をするだろう」という罪刑法定主義の萌芽を芽吹かせました。

現在の私たちの使っている刑法も、この罪刑法定主義が大原則であり、そのことはつまり日本においても罪と罰の関係性は、人間は”考えられる生き物”だという点を信頼して構築されていることを意味しています(私見)。

問題の本質的解決のためには、自分の欲望を抑制する「社会」とは、誰あろう「自分自身や自分の家族のことである」という点に自力で思い及んでもらう必要があります。

そうでなければ、彼や彼の家族は、彼の観念する社会へは恐ろしくて一歩も出かけられなくなるはずです。


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2005/09/11

マタギ、その作法と哲学

マタギが1発で仕留める 青森で収穫中の畑にクマ (Yahoo)
「本田さんは東北地方などの伝統的猟師「マタギ」で狩猟歴約30年。秋田県大館市の射撃場に向かう途中だった。弘前署などによると、クマは5歳ぐらいの雄のツキノワグマで、体長は約1メートル、体重約120キロ。クマが約15メートルまで近づき、立ち上がったところを、鼻の上を狙って1発撃ったという。」

鳥獣保護法の第4条をご覧下さい。

鳥獣の保護及び狩猟の適正化に関する法律

第4条(鳥獣保護事業計画)
「都道府県知事は、基本指針に即して、当該都道府県知事が行う鳥獣保護事業の実施に関する計画を定めるものとする。」 

若い人はご存じないかもしれませんが、マタギとは日本の山村に古くからある狩猟で生活する方々のことです。

その多くは農家と兼業であったともいわれますが、銃を担いで独特の風習を守りながら山の中の熊を射止めます。

鳥獣保護法のルーツは明治6年の「鳥獣猟規則」にさかのぼりその時点では狩人の危険防止が図られたものでしか有りませんでした。

しかしその後、日本が大幅に産業発展を遂げると鳥獣が減少してきたため、改正による狩猟の規制が重ねられ、現在は世界の潮流を受けてより自然動物の保護を強化した内容の法律となっており、その典型条文が第4条の鳥獣保護事業計画です。

西洋の鳥獣保護とスポーツハンティングというとても人間に都合良く切り分けられた思想と、マタギなど東洋の鳥獣の命を狩る人達の覚悟の間にはどんな違いがあるのでしょう。

手元にある「狩猟―狩の民俗と山の動物誌」という書籍のなかで小林増巳さんというマタギがかたったところによれば、『昨今では、江戸時代以来の伝統的な狩猟慣習は全く影をひそめ、狩猟仲間の掟や山猟の禁忌などを知るハンターはほとんどいない。子供達は銃を嫌い、山猟殺生の悪癖は三代で終わりを告げることになった。山の神にゆるしを乞いながら、自然界から限られた手段で食糧を享受していた、つい五十年ほど前のことは遠い昔の語り草となってしまった。』と表現しています。

しかし現代の猟友会の方々も、マタギのように狩猟の場では御神酒や祝詞による魂送りを忘れないのだそうです。

情報が目の前の自然だけだった時代、人間が生きていくために雪山の熊と命を賭けて決闘をしたマタギたちの中では、その重さにおいて熊の命も自らの命も同じだったにちがいありません。

そのため多くのマタギが命ある内に自らの判断で山の神に感謝を捧げつつ銃を置いて引退したといいます。

西洋合理主義の唱える自然保護思想が、人を自然の管理者と位置づけている点でそこが決定的に異なります。

今回のニュースで、通りがかった本田さんが一発で熊を倒した技量も、殺生の重みを知りつつ生きてゆくため引き金を引くマタギならではの作法のひとつです。

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2005/07/22

生協の白石さんと生命の意義

「生協の白石さん」(Moura)

「東京都の西、多摩地区にキャンパスを持つ東京農工大学。明治7年以来の伝統を持つこの大学が、インターネットの世界で熱い視線を集めている。いや正確にいうと注目を集めているのはこの大学の生協、それもこの生協の職員である「白石さん」という人と、学生の皆様とのやりとりが、今ネットワークの世界でとんでもないアクセスを集めているのだ。」

民法の91条をご覧下さい。

第91条

「法律行為の当事者が法令中の公の秩序に関せざる規定に異なりたる意思を表示したるときは其意思に従う」 

民法91条は、任意規定に優越する法律行為自由の原則を認めることで、私的自治の尊重を表現しているといわれます。

私的自治の原則とは、個人が権利義務関係に縛られるのは、その個人の意思による場合に限られるとする私法の原則です。

東京農工大学において、ユーモアというパッケージの下に学生さんと生協職員さんが珍しい形のコミュニケーションを成立させているようです。

この意思疎通における、「意思」というものは民法上、なんらかの表示行為をする際の原因となった心理のことをいうと定義できます。

(民法において表示行為とは、売るとか買うという表明のことです。)

私法において自分の内心を十分に表現できる能力のことを意思能力とよび、民法上は、心神喪失した人や乳幼児には意思能力がないと判断します。

しかしこれがないからといって生物学的な意思そのものがないことにはなりません。

その場合表現はできなくとも、たとえば事故に巻き込まれて外見上意識が混濁していようとも、意思と呼ばれる物の本質は失われていない可能性もあります。

脳と意思は同義ではないからです。

かつて脳神経外科医のワイルダー・ペンフィールドも「脳が心そのものなのではなく、心が脳という臓器を動かしているのだ」と結論づけています。

脳と意思が同義でないとすれば、たとえ脳が息絶えても、意思そのものは別の臓器上で存在しうる可能性も否定しきれません。

実際、体細胞のひとつひとつが活動すること自体にも、見方によってはひとつの意思をみることさえ可能です。

またたとえば手で触った物は一旦脳が判断するとばかりはいえず、時には「手」そのものが判断しているのだといわれます。

脳は計算機でいえば中央演算装置にあたりそうですが、問題は、どこにどうやって存在する、いったい何が、その装置に対して、毎日起こるさまざまな問題の演算をさせているのかという点です。

こうしてみると民法では実にさらっと定義されている意思というもの、実は正体をつきとめるにはまだまだ時間がかかりそうです。

民法91条も、意思が表明されてこそ活用できますので、表明されていない意思を法律で保護できる日も未だ遠そうです。

しかし私たちは意思の正体を未だ突き止めていなくとも、毎日約2700人の新しい意思が生まれてくることの意義のひとつについては、はっきりと腑に落ちています。

世の中に熱をもたらすということです。

生協の質問箱に入れた質問用紙に対して、通り一遍の回答でない、ユーモラスな声が返ってくるとき、農工大の学生さんは質問箱の向こうで息づく確かな一個の意思を見るでしょう。

そして生協の白石さんという一個の意思は、質問とその回答を読んだ他の意思たちに対して熱を伝達することで、世の中に対するやわらかな確信を与えていると見ることができます。
 

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2005/03/26

修羅場で人は試される

バス窓から小6転落、ひき逃げされ死亡 焼津の東名高速(朝日新聞)

刑法の第1編第7章をご覧ください。

第7章 犯罪の不成立及び刑の減免

 「第35条(正当行為)
  第36条(正当防衛)
  第37条(緊急避難)
  第38条(故意)
  第39条(心神喪失及び心神耗弱)
  第40条(削除)
  第41条(責任年齢)
  第42条(自首等)」

どれほど予測想定外の事態が起ころうとも、ドライバーには道交法72条1項前段によりその後の救護措置が科せられています。

そしてこれに背いた時は道交法117条により5年以下の懲役又は50万円以下の罰金に処せられます。

かつて在日米兵が人をはね、そのまま屋根に乗った被害者を、同乗者が路上にひきずりおろして死亡させ、死因がどちらの行為にあるのか不明だった事件がありました。

最高裁第三小法廷は同乗者の行為を「われわれの経験則上当然予想しえられるところであるとは到底いえず、したがって業務上過失致死の罪責をとえない」として不測の事態のからむ結果の責任をドライバーに取らせることを否定しました(昭和42年10月24日)。

この考え方を相当因果関係説と呼びますが、このとき最高裁が引用したのが第7章です。

刑法はあなたが関係した全ての結果の責任をなにがなんでも追及するようには設計されていません。

それは憲法の要請による人権保障的機能でもあり、7章の趣旨もそこにあります(私見)。

よって状況がどうであれ、目の前に生命の危険があるときは、その人命をまず救護することを各法はあなたに要求します。

もちろん法律論を出ても、いくら気が動転しようがとっさのときに人として正しい行動がとれるかどうかは、ひとえに育ちにかかっています。

育ちといっても物心ついてからずっと、人が見ていないところであなた自身がとってきた行動の蓄積の全てのことであり、時として人格と呼ばれるものの話です。

小さな命のご冥福をお祈りします。
 

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2005/03/04

住所の意義と法という素粒子

武富士元会長の長男、国税に異議申し立てへ(読売新聞)

民法の21条をご覧下さい。

第21条〔住所〕 

「各人の生活の本拠を以て其住所とす」

各種の法律がその対象人がどこに住んでいるのかを基準に処理を決めますので、居宅がたくさんある人の場合どういう場所をもって法律上「住所」と呼ぶのかが重要になる場面があり、そのため21条が「それは生活の本拠のことだ」と取り決めています。

「生活の本拠とはどういう場所か」という部分ではこれまで争いがありましたが、判例・学説とも現在では「それは本人の主観というよりも、客観的に決定すべきだ」という結論に落ち着きつつあるといわれます。

海外に家まで購入してビザまでとり、しかも当時の判例が「住所」の解釈において主観説の可能性を見せていたとしたら、税理士が当時発案したアイディアは課税の回避手法として強力なものだったかもしれません。

しかし法の観察して抜け穴を探していた人達が、皆そのアイディアを実行しはじめれば、もはや対象である法はハイゼンベルクの量子論のようにその姿をかえずにはいられません。

ハイゼンベルクの不確定性原理とは、観察者の観察行為そのものが対象に影響を与えてしまい、本来の姿は観察できないというジレンマのことです。

実際2000年に法改正が行われました。

これから「住所」の意義を争うのであれば、より実質性を備えた主張が求められます。

法の伸張性をみくびるべきではないからです。
 

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