2008/05/30

個性化:答えのない旅

無名の日本人画家が主演でカンヌデビュー(日刊スポーツ)
「無名の日本人主演俳優が静かにカンヌデビューを飾った。監督週間部門に招待された仏映画「ムッシュ・モリモト」の森本健一さん(68)だ。本職は画家で、主演どころか演技自体が初めてだったため、全く話題にならなかった。定年退職後の00年に画家を目指して渡仏。自由気ままに老後を楽しむ姿が、そのまま映画の題材になった。」

憲法の21条をご覧下さい。

第21条〔集会・結社・表現の自由,検閲の禁止,通信の秘密〕

「集会,結社及び言論,出版その他一切の表現の自由は,これを保障する。

 検閲は,これをしてはならない。通信の秘密は,これを侵してはならない。」 

わたしやあなたの心のなかにある考え方や信仰(あるいは無信仰)は、外に表明して誰かに伝達してこそはじめてその社会的効用を発揮できます。

その意味で「表現の自由」が法的に保証されていることは、人という社会的な動物にとってとても重要な前提装置です。

「表現の自由」の体内では、表現が人格を発展させるという個人的な価値と、討論により政治に間接関与するという社会的な価値が胎動しています。

そして前者のことを、一般的に「自己実現の価値」などと呼んでいます。(後者は自己統治の価値と呼ばれます)

それらの内在価値が、表現の自由を憲法という特殊な法律の中でも優越的な地位に据えるべきと解釈させているのです。

 
かつてユングは自己実現の道を、個性化(individuation)の過程といいました。

彼によればそれはこういうことです。


「意識と無意識は、どれか一方が他方に抑圧されたり破壊されたりしていては、ひとつの全体を形づくれない。

両者を平等の権利をもって公平に戦わせるならば、双方共満足するに違いない。

両者は生命の両面である。

意識をして、その合理性を守り自己防衛を行わしめ、無意識の生命をして、それ自身の道をゆかしめる公平な機会を受けしめよう。

……それは、古くからあるハンマーと鉄床との間の技である。

それらの間で鍛えられた鉄は、遂に壊れることのない全体、すなわち個人となるであろう。」


わたしやあなたは生きるという過程のなかでこれまで困難に出遭い、難しい意志決定を迫られてきました。

そしてそれにどう対処するかについて、一般法則など存在していません。

たとえばある人は「老い」という季節を迎えて、そこに敢えて挑戦しますが、ある人はその季節をなるべく事なきように生きます。

それら判断の吉凶は、結局誰にもわかりません。

そして一般化を許さぬことにこそ人生の特徴があり、それ故に生きるとは自らを個性化することなのだと解釈されうるのです。

ニュースによれば森本健一さんという68歳になられる方が、公務員を定年退職後、パリに単身渡って絵画の勉強をされている様子が映画になったといいます。

そしてわたしやあなたは、この種のニュースを聞くたびにある種の焦燥感を覚えるのが常です。

「果たして自分は、これまで十分自己を個性化する判断をしてこれたのだろうか」と。

しかしながら人は、常にその時点で自分にできるベストの選択をして生きている、いわばささやかな存在です。

また個性化と自己実現も必ずしも同義ではありません。

個性化はあくまで生きるという長い自己実現の旅の一場面であり、つまりはわたしやあなたにも生きている限り次々個性化の場面が用意されるはずなのです。(参照:河合隼雄 昔話の深層 福音館書店)
 
 

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2007/03/10

自尊というブレーキはオプション装備

研究費の半分以上余剰金に 厚労省の補助金詐欺事件  (熊本日日新聞)
「調べなどによると、厚労省は「障害保健福祉総合研究事業」として京都府内の大学の主任研究者に、2001-02年度で計約3000万円の補助金を交付。中村容疑者は当時の自分の部下2人に一部の研究を分担させるなどした。部下2人の研究には01-02年度で計約370万円の補助金が分配されたが、半分以上の約210万円が余剰金となり、非政府組織(NGO)レインボーブリッヂ代表代行の小坂博幸容疑者(54)=同容疑で逮捕=が社長をしていた会社との架空取引に回された。」

補助金等適正化法の第11条1項をご覧下さい。

補助金等に係る予算の執行の適正化に関する法律

第11条(補助事業等の遂行)

「1 補助事業者等は、法令の定並びに補助金等の交付の決定の内容及びこれに附した条件その他法令に基く各省各庁の長の処分に従い、善良な管理者の注意をもつて補助事業等を行わなければならず、いやしくも補助金等の他の用途への使用をしてはならない。」

補助金とは、行政主体が公益上の必要に基づき交付する金銭的給付をいいます。

補助金は行政の目的達成のための一手法として多様な用いられ方がされており、交付につき昔から不正が発生することから、その支出の適法性が問題とされてきました。

そもそも憲法は、「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない」として公金の流出に原則歯止めをかけています(89条)。

しかし一方で公益上の目的のために公金を特定の事業者に移転する必要がある場合も認め、補助金の交付や交付後の監督に関する規制法として制定されているのが補助金等適正化法です。

しかしそれでも役所が用意した現金を狙う人たちはいます。

そこで補助金等適正化法11条の規定に違反して補助金等の他の用途への使用又は間接補助金等の他の用途への使用をした人には、3年以下の懲役か、50万円以下の罰金が命じられ、あるいは併科されます。(30条)

補助金は、わたしたちが公益上の目的達成のため、国や地方から貴重な財源を事業者に移転することを許した特別措置です。

しかしその思いを、臆面なく懐に引き入れる輩もまたいつの時代も存在することを、補助金等適正化法は今後も予告しつづけます。

 

 

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2007/03/07

問われざる資格は覚悟

お手柄中学生 事故車から男性救出(KSBニュース)
「5日午後8時15分頃、 坂出市府中町の県道で右折しようとしていた軽自動車に、後ろから来た乗用車が追突しました。この事故で軽自動車は横転し、運転していた近くの藤田健さん(72)が車の中に閉じ込められ、後ろの燃料タンクから火が出ました。その直後に自転車で現場を通りかかった中学3年生の男子生徒が素手でフロントガラスをたたき割って、藤田さんを車から引っ張り出しました。その後車は炎上し、まさに間一髪の救出劇となりました。この事故で藤田さんが首などに全治1週間のけがをしたほか、中学生も右手に軽いけがをしました。」

民法の697条をごらんください。

第697条〔管理者の管理義務〕

「義務なくして他人の為めに事務の管理を始めたる者は其事務の性質に従ひ最も本人の利益に適すべき方法に依りて其管理を為すことを要す

管理者が本人の意思を知りたるとき又は之を推知することを得べきときは其意思に従ひて管理を為すことを要す」 

事務管理とは、近所の家が燃えているのを発見したのでドアを壊して隣家に入り助けるなどのように、法律上の義務がないのに他人のためにその事務を処理することをいいます。

しかし民法には、「人命を救助すべき場面においては、これを救助しなければならない」というような規定はありません。

一般的な場合を別として、他人の緊急な危難を目撃し、しかもこれを救助するだけの能力と余裕とを有する人には、法律上これを救助すぺき義務があるとできる法理論的な余地は見つけられます。

現に、水難救護法は、遭難船舶を発見した者は遅滞なく最近地の市町村長または警察官吏に報告すべき義務があるものとし、また、船員法は、船長に対し、他の船舶または航空機の遭難を知ったときは、人命救助の義務があるものと定めています。

たしかにこれらは、いずれも、管理者の本人に対する私法的義務ではなく、管理をなすべき公法的義務の設定です。

しかし、放任行為とされている事務管理が、特殊の場合に強制的な行為とされている法の場面だと見ることも可能です。

それのみならずこの思想は、社会共同生活における道徳的規範として、これに違反する行為・不行為は違法性を帯びるものと法で定めることによって、間接に強制される場合のあることを知らしめています。

例えば、ドイツ刑法が、一定の急迫した犯行の存在を知ってこれを官憲または被害者に告知しないことを犯罪とするのは、この思想の一顕現であるといわれます。

わたしたちの国でも明治時代、お寺の所有者に解雇された病人が、その寺の境内にある千仏堂に無断で入り込んで寝臥していたのを放置し死なせてしまった事件がありました。

このとき大審院は所有者を遺棄罪に問擬し、次のように結論づけています。

「肺結核病の為め身体衰弱し、業務に服する能はざるは勿論、他の扶助を受くるにあらざれば生存する能はざる状態に陥り被告等の住所たる教信寺境内千仏堂に寝臥し居たるものなるを以て、たとえ被告等に法令もしくは契約に基く扶助の義務なしとするも、之を扶助せずして遺棄するが如きは、善良の風俗を害することの甚しきものにして、刑法における疾病の為め扶助を要する者を遺棄したる者に該当すること論をまたず」

この判例は状況次第で事務管理が潜在的義務となることを認めたものだと読むことも可能です。

[以上参照:民法講義〈第5 第3〉債権各論 我妻栄 岩波書店]

業火を前にした中学生の私が、もし同じように車の中にご高年を見つけたら、同じようにフロントガラスを拳で叩き割ることができたものか、全く自信がありません。

しかし事務管理という思想が、社会という同じ船にのる乗組員として潜在的に課せられている義務なのだとすれば、ためらいなく自分の拳を人命救助に使った中学生には、誰よりもその自覚があったといえます。

わたしたちは年若き人がそのような無意識の覚悟をもっていたことに、心が動かされているのです。

 

 

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2006/04/29

上野石之助さん、いつまでもお元気で

元日本兵の上野さん、ウクライナに出発(朝日新聞)
「ウクライナから63年ぶりに一時帰国していた岩手県洋野町出身の旧日本兵、上野石之助さん(83)が28日昼、10日間の日本滞在を終えて成田空港からウクライナへ向けて出発した。付き添いの長男アナトリーさん(37)とともに搭乗手続きを終えた上野さんは、「新しい家ができて、道路もきれいになって、故郷の外見は自分の思い出とはすっかり変わっていた。美しい、すてきな国になった日本を見ることができた」と短い滞在を振り返った。空港には弟の左舘丑太郎さん(81)と妹のタケさん(69)も見送りに訪れた。「弟妹にあえるなんて思ってもいなかった。また帰りたい気持ちはあるが、年だからたぶん無理だろう」。20日に岩手入りして再会を果たしたばかりの弟妹たちと、目に涙をにじませて別れを惜しんだ。 上野さんは樺太で終戦を迎えた後、現地で暮らしていたが、58年に消息が途絶え、00年に戦時死亡宣告が確定した。東京家裁は滞在中に上野さんと面接して宣告の取り消しを決定し、削除された戸籍は近く回復される。」

未帰還者に関する特別措置法の第2条をご覧下さい。

第2条(民法第三十条 の宣告の請求等の特例)

「未帰還者留守家族等援護法第2条第1項に規定する未帰還者に係る民法第30条の宣告の請求は、厚生労働大臣も行うことができる。

2 前項の請求をする場合には、厚生労働大臣は、当該未帰還者の留守家族の意向を尊重して行わなければならない。

3 第一項の規定による厚生労働大臣の請求に基く民法第三十条 の宣告の取消の請求は、厚生労働大臣も行うことができる。」 

未帰還者とは、未帰還者留守家族等援護法第2条においていう、もとの陸海軍に属していた人であって、まだ復員していない人か、未復員者以外の人であって、昭和20年8月9日以後旧ソビエト等で生存していた資料があり、且つ、まだ帰還していない人等をいいます。

太平洋戦争が終結しても帰還できなかった人のおよそ四分の三は当時から生死が明らかでなかったといいます。

未帰還者の問題は、その留守家族に対する揺護措置とともに多くの論議をおこし、昭和34年最初の「未帰還者に関する特別措置法」が施行されることになりました。

この法律のもっとも重要な点は戦時死亡宣告の請求を変則させたところにあります。

すなわち、従来未帰還者の戸籍処理の方法としては、戸籍法の第89条に基づいて取り調べをした官庁が死亡報告をすることによるか、あるいは民法の第30条に基づいて未帰還者の利害関係人が失踪宣告の請求をすることによるかの二つしかありませんでした。

しかし最終消息が判明しない未帰還者については前者の方法では処理できず、かといって後者の方法では、留守家族が自分の手で請求しなければならず、愛する夫や父を待つ家族が自らそのような請求をするという事例としては極めてわずかでした。

このため、この法律においては生死が明らかでない人のうち、諸般の事情で現在生存していないと推測される人とについては、留守家族に代わり厚生労働大臣から失踪宣告の請求ができることとしたのです。

(参照:厚生労働省ホームページ 白書データベース

デ・シーカの名画「ひまわり」では、若い夫婦が第二次世界大戦に運命を狂わされます。

戦争が終わっても帰国しない夫をロシアまで探しに行った妻が、命を助けてくれた女性と別の家庭をもっていた元夫を発見、打ちひしがれてイタリアに帰国します。

元妻が自分を求めている事を知り、新しい妻をロシアに残したままなけなしのお金をはたいて買った土産の帽子もって帰国した元夫もまた、その後元妻が新しい夫との間に子供をもうけていたことを知ります。

今も変わらず愛し合っている二人が駅で別れるラストシーンの本当の残酷さは、大人なら誰でも理解できます。

一旦国家に戦争をはじめさせてしまったら、私たちは絶対に悲劇から逃れることができません。

旧日本兵だった上野石之助さんも83才までまってやっと祖国の地を再び踏むことが出来ました。

しかし未帰還者特措法第2条による戦時死亡宣告は取消されましたが、ウクライナで待つ家族のために、そのまま日本にとどまることはできませんでした。

わたしたちにはっきりわかっていることは、わたしたち自身の時計は絶対に巻き戻せないこと、そしてその時計は最後にかならず止まってしまうということだけです。

あなたやわたしが開戦を決定する人物や閣議からどのくらい関わりのない位置で生活しているのかではなく、わたしやあなたの時間は決して巻き戻せないのだということにだけ焦点を合わせて事態をコントロールしようとすること。

デ・シーカの名画で揺れたたくさんのひまわりと、美しくなった祖国を離れざるを得ない上野石之助さんの笑顔が、そのことの大切さを深く教えてくれています。

 

 

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2006/04/12

「顔」の表す証拠性と絶対他者性

42年逃亡、マフィアの大ボスを逮捕 イタリア警察(朝日新聞)
「イタリア内務省は11日、42年以上も逃亡してきたマフィアの「ボス中のボス」とされるベルナルド・プロベンツァーノ被告(73)を警察が逮捕したことを明らかにした。同被告は「マフィアを撲滅できないイタリア」のシンボル的な存在で、マフィア担当の検事らが執念深く追跡してきた。同被告は映画「ゴッドファーザー」のモデルとして世界的に有名になった故ルチアーノ・リッジョの部下で、六つの終身刑を受けている。93年からシチリア・マフィアのトップになり、逃亡中も複数の手下らが手渡しで運ぶメモによる指示などを通じて多大な影響力を保ったといわれる。同被告を裏切ったとされる部下が報復におびえ、取り調べ中に自殺したことも。」

刑事訴訟法の200条1項をご覧下さい。

第200条〔逮捕状の方式〕

「逮捕状には、被疑者の氏名及び住居、罪名、被疑事実の要旨、引致すべき官公署その他の場所、有効期間及びその期間経過後は逮捕をすることができず令状はこれを返還しなければならない旨並びに発付の年月日その他裁判所の規則で定める事項を記載し、裁判官が、これに記名押印しなければならない。」 

日本の刑事訴訟法上、逮捕状には200条にある通り、被疑者の氏名及び住居,罪名,被疑事実の要旨,引致すべき官公署その他の場所,有効期間及びその経過後は逮捕をすることができず令状はこれを返還しなければならない旨並びに発布の年月日その他裁判所の規則で定める事項が記載されます。

このときもし被疑者の現氏名が分からないなら、身長や性別、傷や入れ墨など特定するに足りる事項を記載します。

人権の最後の砦、裁判所が納得すればこれに許可印が押されます。

しかしもし氏名がわからないとき、被疑者の写真が入手できたならば、これを逮捕状に貼るほうがもっとも人権侵害を予防する意味ではむしろ確実であり、現実に実務の運用もそのようになっているようです。

逮捕に際して逮捕状がいちいち要求される趣旨は、それなしでは戦前のごとく不当逮捕が量産され、逮捕された人も刑事訴訟法上何についてどのように防禦すればよいのか検討もつかないからであり、その重要性はわざわざ憲法33条に明定されているほどです。

イタリアで捕まったマフィアの最高実力者の顔をよくご覧下さい。

日常生活ではまずお目にかかることができないような、他者によるコントロールを一切拒絶するという強烈な意思を両目の奥に灯している顔です。

エマニュエル・レヴィナスは主著『全体性と無限』の中で、「私が殺すことを欲しうるのは、ただ絶対的に独立した存在だけである。つまり、私のさまざまな権能を無限に踏み越え、しかもそのことによって私の権能に対立するのではなく、なにかをなしうることの権能そのものを麻痺させる存在だけなのである。<他者>は、私が殺すことを欲しうるただひとつの存在なのだ。」という言葉で、決して手の届くことのない「他者」という存在の本質を表現しています。(出典:「全体性と無限」 下 レヴィナス 岩波文庫)

全面否定したいならば殺人を、意のままにコントロールしたいなら暴力をという反社会的アプローチで「他者」という絶対外部にたいして接してきた彼の73年間は、彼の顔つきを常人には理解しえないほどに険しく作り上げています。

逮捕状にたとえ本名がなくとも、この顔写真さえあったなら捜査当局は大勢のなかからでも必ず彼を特定できたでしょう。

そして彼の73年かけてつくりあげた「顔」は、逆説的にまた平凡な社会に暮らすわたしやあなたに「他者」という言葉の持つ永遠の距離を再考させるに十分な資料を、まるで彼自身の人生から提供しているかのようです。

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2006/04/08

金魚すくいにおけるタクシスとコスモス

無念…金魚すくい大会優勝取り消し処分無効訴訟ヤブれる(サンスポ)
「奈良県大和郡山市であった金魚すくい大会でルール違反をしたとして優勝を取り消された埼玉県熊谷市の男性が、主催者の「全国金魚すくい競技連盟」に処分の無効確認などを求めた訴訟の判決で、奈良地裁は7日、男性の請求を棄却した。阿部静枝裁判官は判決理由で「男性は外部から隠して持ち込んだポイ(和紙のすくい網)を使用したと認められる。競技の公正を図る上で重要な違反行為」と述べた。判決によると、男性は平成15年8月に開催された「第9回全国金魚すくい選手権大会」の団体戦で優勝したが、ビデオにより、男性が準決勝でタオルとうちわの間に用具を隠し持ち込んでいたことが発覚。主催者は優勝と過去2回の個人戦での優勝記録を取り消し、永久出場停止処分とした。男性は「予選で用意された用具を使用し『主催者が用意した物』という大会規定には反しない」と主張していた。」

憲法の89条をご覧下さい。

第89条〔公の財産の支出利用の制限〕

「公金その他の公の財産は,宗教上の組織若しくは団体の使用,便益若しくは維持のため,又は公の支配に属しない慈善,教育若しくは博愛の事業に対し,これを支出し,又はその利用に供してはならない。」 

たとえば一つの条文の意味を解釈するにしても、その解釈方法により、吐き出される結果はかなり異なってしまうこともあります。

たとえば憲法89条後段は公の支配に属さない教育事業への公費支出を禁ずる一文ですが、その「公の支配に属さない」ことを通常通り文言解釈すれば「国公立でない学校」ということと解するのが素直です。

しかし現実には私学に対しても国家は多大な予算を与えています。

これは高校、あるいは大学という教育機関に対して国費で援助するということに非常に大きな意義があるため、本来およそ「公の支配」にあるとは思えない私的な事業、私学への援助をも、公の支配の意味を相当程度拡大解釈している例です。

ひとつの時代に条文という限られた文字数に込められた思いを、各時代時代で正確に再現していくためには、人にとっての幸福の意味をいつもさぐりながら条文解釈を展開することが必要になります。

私的事業といえども国が教育の現場に公費を与えていくことがあなたやわたしにとって幸福であるならば、条文に縛られることなく解釈していく必要があります。

経済学者ハイエクは「法と立法と自由」のなかで、秩序には計画的に策定された「組織のルール」(タクシス)と、自己増殖的に現れた「自生的秩序のルール」(コスモス)の二種類があることを言及しています。

そして自生的秩序のルールのほうが、誰もその特定のまたは具体的な内容を知りもしないし予見もしない、一つの抽象的な秩序を目指すことを意味する一方、組織のルールのほうは、その組織の命令者が目指す特定の結果に資することになるのだとしています。

そのうえで一見不明瞭な自生的秩序こそが、「目的」を超えた「成長」を社会にもたらしてきたのだと解析しています。(ハイエク全集8 法と立法と自由 ルールと秩序 春秋社)

ハイエクに習えば人の集まりは、フェアプレイを要求する条文がないことで、自生的秩序がフェアプレイの空気を作っていくことになります。

金魚すくいで3年連続チャンピオンだったはずの人が原告になった訴訟は彼からチャンピオンの称号を全て剥奪した処分を有効としました。

原告の主張は「全国金魚すくい競技連盟標準公式規程には”用具は全て主催者において用意したものを使用するものとする”とだけあり、予選で主催者が用意した用具を本戦に隠し持っていたからといって文言解釈すればルール違反とはいえまい」というものだったようです。

奈良地裁は不正を認定しましたが、その前にそもそも、競技規定を文言解釈するということ自体が、金魚すくいという風流な行為を愛する小コミュニティの自生的秩序が目指す場所とは全く別のところに向かうベクトルであることを文脈として認定しています(私見)。

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2006/04/06

空手家の遺言と山中の見えない秘伝書

シンガポール武道家一族:空手家探し青森の雪山へ(毎日新聞)
「事情を聴いたところ、亡くなった武道家はシンガポールで空手などを教えていた。しかし、2人の息子は武道に興味がなく、道場にあった「空手の秘伝書」も弟子の一人に盗まれてしまった。後継ぎ問題に苦慮した武道家は死の間際、「青森県の相馬村に極真空手の伝承者がいる。彼に会い、秘伝書を譲り受けてほしい」と遺言したという。」

民法の960条をご覧下さい。

第960条〔遺言の要式性〕

「遺言は,この法律に定める方式に従わなければ,これをすることができない」

遺言とは、人の最終の意思を尊重し、死後その意思の実現を保障するための制度における、その意思をいいます。

遺言とは、つまるところ私有財産制度の財産処分の自由の延長に存在する制度です。

しかし一方でそれを偏重することは、生きゆくものの財産や身分関係に大きな影響を与えますので、遺言に無制限な自由を与えるわけにはいきません。

つまり遺言という制度を解体すれば、法哲学上かなり難しい問題を含んでいることがわかります。 [参照:自由国民社 図解による法律用語辞典]

そこで民法は相続分の指定(902条)や認知(781条2項)等、限られた範囲にだけ遺言の効力を許し、それ以外の事項についての遺言は日本の民法上効果を認めず、遺訓とのみ呼ばれることになり、もはや道徳的な効力しか発揮しないことにしています。[参照:法律学小辞典 有斐閣]

さらに民法960条は遺言に厳しい形式要件性を要求し、それを外れた遺言に効力を認めないことで生きゆく者の生活を死にゆく者の言動でむやみに乱されないよう防禦しています(私見)。

シンガポールの空手家の遺言は、残された家族を日本まで渡らせ、雪山で遭難までしかける事態を招来しました。

彼の国の家族法はきっと強力な遺言の強制力を認めているのか、あるいはとても家族に愛されて亡くなったお父さんだったかのどちらかであるはずです。

今現在雪山の山中に、遺言された空手家や秘伝書は存在していないそうです。

空手家の遺族が、秘伝書やそれに準ずる絆を伝説の空手発祥の国で見つけることができるかどうかは、ニュースを知った日本人空手家相互間のネットワークの自由意思に委ねられています。

遺言の真意も案外そんなところにあったかもしれません。

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2006/03/31

耳障りのいいフレーズでお互いを縛ろう

フランス:学生らが駅や高速道路一部占拠、交通機関が混乱
「サン・シャルル駅を占拠する学生ら=ロイター 【パリ福井聡】フランス各地で30日、「初期雇用契約」(CPE)に反対する学生たちが鉄道の駅や高速道路を一部占拠し、交通機関が混乱した。南部マルセイユでは国鉄のサン・シャルル駅を学生200人が占拠し、列車が発車できない状態となった。学生らは北部リール、北東部ダンケルク、北西部ナント、アンジェなどでも高速道路や一般道路の橋を占拠した。」

東京都公安条例の第1条をご覧下さい。

集会、集団行進及び集団示威運動に関する条例

第1条

「道路その他公共の場所で集会若しくは集団行進を行おうとするとき、又は場所のいかんを問わず集団示威運動を行おうとするときは、東京都公安委員会の許可を受けなければならない(以下略)」 

デモ行進、いわゆる集団示威運動の自由は、固有の思想・信条・意見の表明を多数人が集団示威することで関係内外に強くアピールし、そのことでより乾いた意見を呼び込める点に意義があります(私見)。

現代ではその多くは各地の地方公共団体によって制定されている公安条例が管理し、戦前の治安警察法4条の「届出」よりも文言上厳しくなった「許可」が実行の要件となっています。

現代憲法にも「集団示威運動の自由は保障する」という条文はありません。

それは単に表現の自由の一形態として、憲法21条の保障が及ぶだろうと、学説上考えられているだけです。

最高裁の判例も公安条例によるデモの規制を合憲としています(許可制は実質上の治安維持法であるという強い批判もあります)。

統治する人達は、デモというものを完全自由にすれば、社会に気づかれざる不満が蔓延している場合、それに気づかせる火種になってしまうことを十分理解しています。

物理的に人が一種の騒動を起こす絵面が、単に文献やインターネット上の論議より大きな波及効果をもたらすのです。

インフォメーション・テクノロジーがどれほど進展しようとも、デモ行進のそうした真価は未だ失われることはなく、人権を発見した土地、フランスだからこそ今も身体レベルでそのことが理解されているのだといえるでしょう。

わたしやあなたの暮らす国でデモが許可制になり、それが活発に用いられなくなってから数十年が立ちました。

かくいう私もそういったものには参加した経験がありません。

しかしながら、いつのまにかガラガラを与えられて機嫌良くさせられているだけではないのか、確認する手立ては残されています。

他人の言葉を捨て、自分の感情に耳を傾けることだけは、今のところ誰にも許可を得る必要はないからです。

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2006/01/27

一夫多妻制を採用した家族と、人類の選択

一夫多妻男は元自衛隊幹部名乗り脅す(日刊スポーツ)
「 一夫多妻制のような集団生活に加わるよう専門学校生の女性(20)を脅した事件で、脅迫容疑で逮捕された無職渋谷博仁容疑者(57)が「私は自衛隊の元幹部で、周りにはスパイがいる」などと被害女性に話していたことが26日、警視庁捜査1課と東大和署の調べで分かった。」

民法の732条をご覧下さい。

第732条〔重婚禁止〕
「配偶者のある者は,重ねて婚姻をすることができない。」 

民法732条は重婚というものを禁止し、日本では一夫一婦制以外の婚姻を認めないことを宣言しています。

しかしなにもそれは人間社会の絶対原則ではなく、世界は広いもので一夫多妻制を堂々と認める国があることも確かです。

それでは何故我が国では一夫多妻制は認められていないのでしょうか。

法律を材料に少し考えてみます。

民法は一夫一婦の枠組みに入らない人間関係、たとえば本妻と別にいた愛人とご主人が法律行為でもめたとき、「そもそも公序良俗に反する」として関係者間の法律行為を無効にすることにしています(90条)。

公序良俗違反を反社会性で類型化すると、犯罪にかかわる行為、取締規定に反する行為、人倫に反する行為、射倖行為などが上げられます。

このうち一夫多妻、すなわち本妻の他に愛人契約をするような婚姻秩序・性道徳に反する契約を無効とするのが人倫に反する行為という類型です。(参照:内田貴 民法Ⅰ 東京大学出版会

つまり私達は一夫多妻制を見るとき「人倫に反する」ため、社会的妥当性を欠くと法律的に表現するのです。

ではそもそも、なぜ現代に生きる私達は一夫多妻制を人倫の反するものと感じて「納得できない」と感じるのでしょうか。

もともと一夫多妻制は哺乳類によくみられる形態で、人間とて、そのお仲間の一部に違いはありません。

人間と他の哺乳類との決定的違いとして、女性(メス)に発情期があるのかないのかという点があげられるのだとか。

発情期というものがない、すなわちいつでも男性を受け入れることが可能な人間の女性が、いったん世の中を強い権力構造が支配する男系社会に誕生したと仮定してみてください。

貴族や財閥が散在したそうした社会では、獲得した優越的地位や蓄積した財産を相続させるために、妻以外にも愛人をたくさんとりそろえて自身の遺伝子伝達のいろいろなバージョンを可能にする一夫多妻制が自然と容認されるようになります。

事実過去の日本でも、またあのモラルの厳しいキリスト教社会でも、建前はともかく事実上として有力者が妻とその他の愛人を囲うという社会的事実を認めてきた時代があったのだとか。

一夫一婦制の社会では、各家庭に「男子は家庭を守れ、女子は子供を産み育てよ」という平均化された職分が社会的圧力を伴って与えられます。

対して一夫多妻制の社会では、男子にはそれ相応の器を、女子には一人しかいない男子の寵愛を受けるため飽きの来ない真の才能を要求されることになります。

そして家庭を持つことにあぶれた男子の大きな割合が聖職者や僧侶、その他家族を養う必要のない身分となり、各地に非生産的な、すなわち文化的な成熟をもたらす要因となります。

動物行動学からいえば、非凡な才能を排出するためにはむしろ一夫多妻制のほうが適しているとさえいえるのだそうです。(以上参照:竹内久美子「賭博と国家と男と女」

しかしそれにもかかわらず現代の多くの文明国家の法律が婚姻の原則を一夫一婦制であると定めています。

思うにそれはきっと私達の歴史が一夫多妻制のような突出した部分をもつ社会の問題解決能力に見切りを付け、もっと見晴らしのいい整地された世の中を望んできたからなのかもしれません。

現に多くの国の憲法は、特定の人達に権力が集まる時に、それが濫用されることを警戒することをその主眼にしています(国民主権原理)。

現代の人間とは、少数の突出した才能(いわば点)の産出にその繁栄の鍵を託すことよりも、一夫一婦制によって生み出されるたくさんの平均化した人間のつながり(いわば面)によって、生存を阻む諸問題を解決していこうという選択をした生物の一群なのではないでしょうか(私見)。

そうだとすると面による解決を採択をしてきた人間社会で、逆行するような一夫多妻制をとる集団をみつけたとき、私達の胸の中に芽生える「社会的に不相当である」という感覚は、案外無意識下の歴史的記憶が呼びかけている可能性も考えられます。

法律が個人の尊厳に覚醒したことは、アイロニカルにいえば偉大なる凡庸の量産という生物学的安全装置を私達が受容したのだといいかえられるでしょう。

公序良俗、すなわち法学上で「社会的妥当性」と呼ばれる時代の判断基準が、どんどん「旦那の回りに愛人が数人」といった状況を社会に許さなくなってきているのは、人間という種族全体が生存をかけて集合意識下でなした決断によるものなのかもしれない、などと思ったりするのです。

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2005/12/06

美しい女優の死と民法のトラックバック

原ひさ子さんが死去 名おばあちゃん女優(徳島新聞)
「映画、テレビドラマなどの脇役として活躍、「日本のおばあちゃん」として親しまれた女優の原ひさ子(はら・ひさこ、本名石島久=いしじま・ひさ)さんが4日午後9時32分、心不全のため東京都荒川区の病院で死去した。96歳。」

民法の882条をご覧下さい。

第882条〔相続開始原因〕

「相続は,死亡によって開始する。」 

人は生まれればすぐ民法1条の3をもって私権の享有を認められ、この社会で財産を殖やしていくプレーヤーの一員であると認められます。

6歳になれば学校教育法22条がその保護者に義務教育を受けさせる義務を負わせます。

そして男性は18歳、女性は16歳になれば民法731条が婚姻の資格を与え、20歳になれば公職選挙法の第9条により選挙権が与えられます。

その後40歳になれば介護保険法10条が介護保険被保険者の資格取得を認め、60歳になるまでは高年齢者等の雇用の安定等に関する法律の8条が事業者から定年にされることを保護してくれます。

65歳になれば国民年金法がその26条で年金の支給を宣言しますし、最期に、お亡くなりになると民法はその882条によって相続の開始を宣言します。

すなわち人の死は民法上、「相続の開始」として表現され、故人そのものは民法の直接考慮対象から外されることが宣言されるのです。

(ただし亡くなった方が全て法律の考慮から外されるわけではなく、たとえば著作権は、著作権者の死後50年間保護されることになっています(著作権法51条2項)。)

いうまでもなく民法は、”生きている人同士が、どうやって幸福になっていくか”のためのルールですので、故人へのケアは”残した財産の移行、すなわち相続”という形でしか術を持ちませんし、残された社会のためにもその財産に対する権利の空白を許しません。

あなたやわたしが明日社会からいなくなってもその発展を辞めさせないために、民法は生きている命だけに対して要所要所でトラックバックしつづけていくのです。

原ひさ子さんという、老いて尚とても美しかった女優さんがお亡くなりになりました。

民法882条自体は、既に原さんを直接の考慮対象としないことを宣言しますが、そのことと我々が故人の女優として残されたやわらかい歩みを賞翫することはまったく別の次元にあります。

自分のルールで生きた人のカタチは、名前のない遺産を常に後人全てに残していってくれているのです。

法理メール? 

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