2007/04/25

感情を埋葬せよ

愛染恭子 14歳の姪に恋人取られ暴行 (スポーツニッポン)
「愛染容疑者は「14歳なのに大人と交際していたので、しつけのために殴った。やりすぎた」と容疑を認めている。姪は野田署に「いけないことをしたので殴られた。ただ、あまりにもひどく殴られたので、“もしかしたら殺される”と思って家を飛び出した」と語っているという。」 

児童虐待防止法の第2条をごらんください

児童虐待の防止等に関する法律

「第2条(児童虐待の定義)

この法律において、「児童虐待」とは、保護者(親権を行う者、未成年後見人その他の者で、児童を現に監護するものをいう。以下同じ。)がその監護する児童(十八歳に満たない者をいう。以下同じ。)について行う次に掲げる行為をいう。
 一 児童の身体に外傷が生じ、又は生じるおそれのある暴行を加えること。
 二 児童にわいせつな行為をすること又は児童をしてわいせつな行為をさせること。
 三 児童の心身の正常な発達を妨げるような著しい減食又は長時間の放置、保護者以外の同居人による前二号又は次号に掲げる行為と同様の行為の放置その他の保護者としての監護を著しく怠ること。
 四 児童に対する著しい暴言又は著しく拒絶的な対応、児童が同居する家庭における配偶者に対する暴力(配偶者(婚姻の届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にある者を含む。)の身体に対する不法な攻撃であって生命又は身体に危害を及ぼすもの及びこれに準ずる心身に有害な影響を及ぼす言動をいう。)その他の児童に著しい心理的外傷を与える言動を行うこと。」 

もし親が健全ならば、子供が目の前で怒りや悲しみを爆発させてもそれらは全て受容され、十分な愛撫とともに育てられます。

逆にそう育てられなかった人は、思う存分泣きたかったという思いと、叱られないために泣かなかったという思いが、未消化のまま彼らの中に存在しつづけることになります。

そもそも子供の頃の怒りの底辺には、存分に愛して欲しいという欲求があります。

しかし怒りの形で愛を求めても、それを拒絶してしまう親に出会えば、子供はその怒りを一定の行動傾向により隠されていかざるをえません。

そして深層に理解され尽くしていない感情を残したまま親になれば、目の前で感情を自由に表現する子供を前に、”自分はあれほど堪えたのに”という感情の爆発を抑えきれなくなるというのが、児童虐待のひとつのプロセスだといわれます。(参照:閉じこもりの原因と治療―登校拒否から出社拒否へ 黒川昭登)

児童虐待防止法2条にいう「保護者」とは、親権を行う人、未成年後見人その他の人で児童を現実に看護、保護している場合の人をいいます。

そのためたとえ親権者であっても、その養育を他人任せにしている人は保護者にあたりません。

逆に親権者や後見人でなくとも、親と同居して親のように面倒をみている大人なども、児童を現実に監督、保護している場合には児童虐待防止法2条にいう「保護者」に該当します。

児童とは児童福祉法同様、満18歳未満の人のことです。

児童虐待防止法2条はそれらの言葉の定義をはっきりさせることで、守られるべき子供と処罰対象となる大人の範囲を明らかにした条文です。

2条が捕捉する”怒りをコントロールできない親たち”の中に、もし未消化の感情を認められれば、周囲の苦言は残念ながら功を奏さないかもしれません。

なぜならそれは彼らに対して、新たに彼らの感情の埋葬を強制する”新しい親の出現”以上にはなりえないかもしれないからです。

むしろ児童虐待問題は、現代において全ての大人に対して、未消化の感情の潜在を問うてみることはとても大切なのだと警鐘しているかのようです。

もちろんそれによって大人の暴力から直接的に救われるのは今を生きる子供達ですが、同時に私たち自身も少なからず救われる気がするのです。

 

 

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2007/03/27

自由な季節、不利益な季節

加護ちゃん 2度目喫煙で解雇、引退へ(スポーツニッポン)

「本人に事情を聴いた後、未成年であるため両親と相談した上で、専属契約を解除した。」

民法の5条1項をごらんください。

第5条(未成年者の法律行為)

「1 未成年者が法律行為をするには、その法定代理人の同意を得なければならない。ただし、単に権利を得、又は義務を免れる法律行為については、この限りでない。」 

民法のメガネをかけて見る社会では、参加している人すべてに取引をフェアに判断できる能力があることが前提に権利能力が与えられています

権利能力とは、権利義務の主役になれる資格のことをいい、これを一人でなすことのできる人を行為能力者といいます。

しかし現実には赤ちゃんに判断能力があるはずもありませんが、権利能力自体は、その赤ちゃんにも与えられています。

よって権利能力はあるものの、判断能力が十分でない人は行為能力者とはあえて呼ばず、その人にとってアンフェアな結果がもたらされない法律的なカバーが必要です。

もともと意思能力が制限されている人がした法律行為は民法上無効になるので、個別的にそれを証明すれば保護が可能だといえますが、その作業はかならずしも簡単ではありません。

そこで民法がひとまとめに意思能力が制限されている人たちの範囲を決め、その範囲の人たちは法律行為を取り消すことができるとカバーしたのが、制限行為能力者制度です。

そして未成年は民法上、この制限行為能力者という範疇に入れられています。

民法は、未成年者の判断能力を本人の自覚を問わず、”その能力ではあなたにとってフェアな結果をよばない”と判断しているわけです。

解除の通告を受けるのもまた法律行為ですので、制限行為能力者である未成年者は、事態を正確に理解できる法定代理人、普通ご両親に同意を得なければなりません。

契約を解除された人は、深刻な法律的責任を相手方へ負う場合もあるからです。

未成年とは、一般に語彙が少なく、自分のしていることの真の意味を把握しづらい時代かもしれません。

しかしそれだけに自分自身からさえも自由な季節だといえます。

同時に民法はそのことの法律関係的危うさを、本人の前に立って社会に宣告しています。

 

 

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2006/11/08

じさつをよこくしたきみへのてがみをかこう

自殺予告手紙:「生きていくのがつらい」……手紙全文(毎日新聞)

「教育委員会へ

なぜ僕が自殺をしたのかわかりますか。ぜったいわからないとウソをつくでしょう。まず最初に言いたいことがありま。今回の自殺は、「いじめが原因で自殺した。自殺といじめは因果関係があり教育委員は、いじめをしっていながらなにもしなかった。」とはっきりテレビのニュースで本当のことをいってください。親が教育委員会に学校がなにもしないとなんどもなんどもいったのになぜなにもしないのですか。教育委員会のしごとはなんですかおしえてくださいいじめをさせるのが教育委員会のしごとですか教育委員会は全国にあっていじめをさせているのですか。テレビでは、ウソつきをしています。またこんかいもしょうこいんめつをするのですかこんかいはぜったいさせません。なので文部科学大臣に遺書を書きました。僕は、なにもしなかった教育委員会をゆるせません。なので11月8日水曜日までにいじめがかいけつできなかったら11月11日土曜日に自殺をします。ほんきです。なにもしない教育委員会はいらないすぐに解散してください。僕は、死んだらうらみます。教育委員会は、どこもニュースでやっているとおり同じです。ウソをついて自分のためだけにやっています。きゅうりょうどろぼうで自己中心でゆるせません。なので僕は自殺をします。」

憲法の98条をご覧下さい。

第98条〔憲法の最高法規性〕

「この憲法は,国の最高法規であって,その条規に反する法律,命令,詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は,その効力を有しない。」(以下略) 

 

君が生まれるずっと前、この国には御前会議(ごぜんかいぎ)や枢密院(すうみついん)という組織(そしき)があったんだ。

御前会議っていうのは、法律(ほうりつ)の根拠(こんきょ)がぜんぜんない組織だったんだ。

だけど国の一番大切な決めごとはたいていこの人たちに決められていたんだよ。

たとえば戦争を始めることなんかはこの人たちが決めて、普通の人たちは文句をいえない時代だったんだ。

それと枢密院っていうグループもまた、憲法(けんぽう)より偉いところにあった。

枢密院はあんまりにも偉くて、総理大臣(そうりだいじん)たちの行動さえコントロールしてしまっていたんだ。

御前会議も枢密院も、憲法が縛(しば)れない場所にあった。

だから日本が戦争に負けた時、占領軍(せんりょうぐん)っていう外人さんたちがやってきて、そういう法律の外にある集団のことを詳(くわ)しく分析(ぶんせき)した。

そして普通の人が自分の一生を自分で決められる国にするためには、新しい憲法に「ぜったいに憲法より偉い存在(そんざい)をつくってはいけない」っていう文章を入れようときめたんだ。

それが今の憲法の98条に書いてある「憲法の最高法規性(けんぽうのさいこうほうきせい)」という文章(ぶんしょう)の意味(いみ)なんだ。

それ以降(いこう)、法律全体(ほうりつぜんたい)の意味(いみ)づけがおおきくかわった。

昔はよかったっていうおじいさんがいたらそれは嘘(うそ)だ。

君が自分で調べれば、世の中はいつだって少しずつ昔よりマシになりつづけていることがわかる。

君にとっては毎日が地獄だろう。

でも君の手紙を文科省(もんかしょう)が約束通り公開したのも、今までで一番マシになった世界が、君の暮らす世界だからなんだ。

それでもクラスにいる君のように、社会にもふみにじられている弱い人たちはたくさんいる。

君の言うように、今の大人はそれについて全然役立っていないかもしれない。

でも大人(おとな)たちは、意外(いがい)に必死(ひっし)でそれを考えている。

それでもうまくいかなかったとき、正(ただ)しい態度(たいど)を示(しめ)していくのがほかでもない、大人になった君だ。

それはそういう経験(けいけん)と感受性(かんじゅせい)をもった、将来(しょうらい)の君にまかされた責任(せきにん)なんだ。

君がその責任をひきうけないうちは、解決(かいけつ)はいつも他人次第(たにんしだい)だから、どこにでも苦しみをみつけてしまうだろう。

実は大人たちもそういう責任をとれないために、自分の苦しみを始終(しじゅう)他人のせいに感じている。

僕自身も不愉快(ふゆかい)なことをすぐに他人やどこか偉い人のせいにしたくなるんだ。

そして被害者(ひがいしゃ)でいつづける気持ちは誰にとっても、とてもつらい。

だから大人のくせにいろんな本を読んで、もっとたくさんのものの見方を勉強してる。

大人達は失敗(しっぱい)したり、威張(いば)ったり、知らん顔をしたりしながら、なんとか前よりマシな世界をつくっていこうとしているんだ。

それはあらゆる生き物の本能(ほんのう)なんだ。

残念ながら君が本当に死んでも、僕はすぐに忘れてしまうだろう。

だったら行きたくない学校(がっこう)なんていかないほうがいい。

それに寝る前に悪いニュースばかりみていたら、すぐに誰かのせいにする言葉遣いしかできなくなるからやめよう。

それよりも君にとっては、自分の好きになった言葉や映画(えいが)や音楽(おんがく)を集めて、自分の中に自分の気持ちのいい世界をちょっとずつ作っていくことのほうが大切なんだ。

そうやって皆(みな)、他人に振り回されない自分をちょっとづつ作(つく)っていくものなんだ。

期待(きたい)しちゃだめだ。

これからも君の前には、ドラマのような先生はあらわれない。

でも君は憲法98条が一番高いところにある、いままでで一番マシな世界に住んでいる。

そして君の世の中の見え方をこれから何度も変える言葉が、まだまだたくさん君を待っているんだ。

 

 

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2006/10/25

幸福のための柵で幸福を殺そう

京都3歳児餓死、相談所が虐待情報を放置…父の話信用(読売新聞)
「拓夢ちゃんは9月下旬から衰弱状態にあったとみられるが、同相談所は「通報内容からは虐待と判断できなかった」と説明。貴正容疑者に通報の事実関係をただしたこともなかったといい、理由について「貴正容疑者と内妻の関係を大事にしてあげたいという配慮があった」などと釈明している。警察庁は今年9月、各都道府県警に対し、虐待の疑いがある家庭への警察官の積極的な立ち入りなどを求める緊急通達を出したばかり。しかし、同署は今年3月、姉に対し虐待の疑いがあるとして児童相談所に通告した後、「命にかかわるような深刻な症状ではなかった」として捜査はしていなかった。一方、児童相談所も拓夢ちゃんに関する民生児童委員からの情報を同署に全く連絡していなかったという。」

憲法の第31条をご覧下さい。

第31条〔法定手続の保障〕

「何人も,法律の定める手続によらなければ,その生命若しくは自由を奪はれ,又はその他の刑罰を科せられない。」

日本の敗戦時、占領軍が、日本の民主化政策の中で、刑事司法改革を重視したのは、彼らが、日本の戦時刑事手続の運用実態についてよく認識していたからだといいます。

当時の占領軍総司令部民政局法規課長、マロイ・E・ラウエルは次のようにレポートしています。

「日本では、個人の権利の最も重大な侵害は、種々の警察機関、とくに特別高等警察および憲兵隊の何ら制限されない行動並びに検察官(検事)の行動を通じて行なわれた。

あらゆる態様の侵害が、警察および検事により、一般の法律の実施に際し、とりわけ思想統制法の実施に際して、行われた。

訴追されることなくして何ヶ月も何年間も監禁されることは、国民にとって異例のことではなく、しかもその期間中、被疑者からの自白を強要する企てがなされたのである」 [参照:白取祐司 刑事訴訟法 日本評論社]

つまり私たちの国の警察は、戦争に負けるまで突然玄関先に現れ、お父さんを連れて行ってしまい、訴追することもなく何年も監禁していたという現実を作っていたのです。

このような世の中では一般市民は何が自分の本音なのかなど恐怖のために忘れてしまい、誰もが叫ぶように国家の用意したスローガンを繰り返したとしてもムリはありません。

現行の憲法はこの事態の再来を忌避して、31条や33条によって正当な手続きなくお巡りさんたちがわたしやわたしの家族達をひったてていくことを禁じています。

この約束のことを令状主義といいます。

どこかの家が夜中に大騒ぎしていたとしても、やたらと警察官が令状もなしで玄関からドカドカと入っていけないのは、こうした歴史を背負った上での約束のためなのです。

令状主義はそういう世の中の形を維持することで、誰もが自分の本音を確認できる世の中を確保し、それぞれの幸福を目指す指針を失わせません。

しかしいつの世も、形式的約束をつくったのは私たちの幸福を追求するためという趣旨があったからだということを忘れて私たちは思考を硬直させるべきではありません。

子供が他人に助けを求めるというような異常な事態があるとしたら、原則を死守しつつも彼の命のために例外の道をつけなければならないと分かるのも、また私やあなたという生き物の本音からくるものです。

本年度9月の警察庁緊急通達も、令状主義の大原則は理解しながらも、その生存の行方を大人に任せざるを得ない子供の命が危険に面していると疑われるときは例外を出動させる非常手段の道をつけたものです。

こどもには、何もすべがありません。

その命を守れるのは、法の原則の変形も含めてわたしたち大人がどれだけの想像力を働かせることができるかだけにかかっています。

 

 

*拓夢くんのご冥福をお祈りします。

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2006/08/07

水から上がって、わたしたちは約束をした

埼玉の事故 プールの安全規格とは(東京新聞)
「池本次長はこう胸の内を明かした。「改修となると多額の費用がかかる。新たに建て直すのなら吸水口の構造は違うものにしたかもしれない。(事故は)悔やんでも悔やみ切れないが、失敗作ではない」

埼玉県プール維持管理指導要綱の第六条、別記一イの(4)をご覧ください。

第六条
プールの施設基準、維持管理基準及び水質基準については、別記のとおりとする。
別記(第六条関係)
一 プールの施設基準
イ プールの構造設備の基準
(4) 排水設備
「排水口及び循環水の取入口には、堅固な金網や格子鉄蓋等を設けてネジ、ボルト等で固定させるとともに、遊泳者等の吸い込みを防止するための金具等を設置すること。なお、排水設備は、排水路を含め、周辺の生活環境に十分配慮した構造とすること。」 

燃えさかる太陽の下、その一切の体力を使い切るまで近所のプールで遊ぶ楽しみは、子供の頃だけに許される至福の時間であることに間違いはありません。

体を焼きに行ったり、冷を取るためだけに時々プールに行く大人達と違い、ただ水の中にいるだけで、子供の頃のわたしたちは幸福で仕方がなかったのです。

普段の重力から解放された子供たちはそこで色々な実験を繰り返します。

TVで見たヒーローと同じパンチやキックを水中で繰り出し、水底まで潜って裏返っては水面から見る世界を鼻をつまんで確認します。

流れるプールの吸水口があればどのくらいの力で引っ張り込まれるものなのか、近寄って試してみるという動きも子供ならば当然で、結果的に事故を起こしてしまう設計ではふじみ野市の教育次長の言には違えてとても成功作とはいえないでしょう。

子供とは、安全面への大人の万全の配慮を信じて、全てを試そうとする存在のことをいうからです。

本当に不思議だと思うことをとことん授業中に質問してしまうと授業が滞るのでそれをやってはいけないらしいこと、先生といえども大人である以上、いろいろな都合があっていつも子供の見方であるとはいえないらしいこと、大人たちは、社会的関係や子供にはわからないお金の話などで、問題解決のプライマリを決めていくらしいこと。

そうした世の中に時に矛盾も感じながらも、子供たちは自分に与えられた社会関係的な空間をとらえ、その中で個性を発芽させていきます。

しかしもし子供が探っている最中の社会が、一部でポッカリ黒い口を開けていたとすれば、それはもはや子供を育てるための環境とは呼べなくなります。

丸投げや孫請け、設計思想の未熟、あるいは法の下請けという思想そのものの未発達が業者や公務員等大人たちにとって都合がよかった、あるいはどうでもよかったのだとすれば、子供は無防備に水中を探検している場合ではないからです。

プールの設計面を具体的に数字で規制する条文は、文科省にも国交省にも厚労省にもなく、または当該プールを捕捉できず、さらにそのため本来責をとるはずの埼玉県オリジナルの要項も、眠い内容だったことが明らかになりました。

しかし要綱とは各行政の内部規範を意味し、それは本来国家法令の限界が届かない、かゆいところに手をのばす意味で作成されるもので、その意味で、たとえば地方行政の要項には住民のより具体的な意思が反映していていいツールのはずなのです。

もしそうであるとすると最終的に緩んでいたのは、真の意味で安全なプールを子供達に用意するよう行政を最後まで管理できなかった、わたしやあなたの及ばないイメージ力だった可能性もあります。

何よりもわたしたちはあの暑かったプールから上がった日、次の日の子供たちのためにそれを約束してきたはずなのです。



*戸丸瑛梨香ちゃんの安らかなご冥福を心からお祈りします。

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2006/05/08

ゴン太くんを見る大人が幸せになる理由

ノッポ&ゴン太コンビが復活(livedoorNEWS)
「67年から23年間放送され、90年3月で終了したNHK教育テレビの伝説的番組「できるかな」に出演していたノッポさんとゴン太くんのコンビが5日、東京・渋谷のNHKで行われたイベント「渋谷DEどーも’06」のイベントに出演した。イベントはNHKの番組「みんなのうた」が放送45周年を記念したもの。“名コンビ”は同番組で放送されているノッポさんの歌手デビュー曲「グラスホッパー物語」をミュージカルに仕上げた舞台に参加し、長年の友人だったゴン太くんは、バッタ(グラスホッパー)になって駆けつけた。会場は晴天に加え、こどもの日ということで、親子連れで、立ち見もでるほどの盛況ぶり。懐かしの名コンビのミュージカル初共演に、子供たちもさることながら、お父さん、お母さんの方が、ヒートアップしていた。」

児童の権利に関する条約の第13条1項をご覧下さい。

第13条

「1 児童は、表現の自由についての権利を有する。この権利には、口頭、手書き若しくは印刷、芸術の形態又は自ら選択する他の方法により、国境とのかかわりなく、あらゆる種類の情報及び考えを求め、受け及び伝える自由を含む。」(外務省訳) 

「できるかな」はゴン太くんとのっぽさんが工作を教えてくれた有名な番組です。

NHKのキャラクター説明ページによると、”ゴン太くん”とは、当時の担当構成作家が好きだった子供像で、”ごんたくれ”、つまり大阪でいうところのやんちゃ坊主という意味なのだそうです。

それはけものでも人でもない存在をデザインしているのだといいます。

そもそも子供とは十分な言葉を持たない存在であり、十分な言葉を持たないことは余計な固定観念をもたない存在であることも同時に意味しています。

つかみどころのないゴン太くんのかたちは、外界に対してなんら決めつける言葉を未だ持たない子供達自身の不定形性をもあらわしているのかもしれません。

そんな子供達にとって、工作などで手を動かすことは、心を発達させるためにとても大切な作業です。

児童の権利条約は、一八歳末満の者に、大人と同様の人権享有主体としての地位を保障しようとするところに真価のある条約です。

子供はややもすると「もうすぐ権利主体になる半人前」と都合良く扱われがちですが、よくよく考えてみれば、わたしもあなたも幼いころ大人に不条理に扱われて、心を押しつぶしたことがあったはずです。

児童の権利条約は、子供といえどもはっきりと子供固有の権利をもつ存在であり、それは決して権利の順番待ちしている存在ではないのだということを、世界規模で浸透させようというプロジェクトだと言い換えられます。

その13条は大人に非常に重要な権利として与えられる「表現の自由」を全く縮小することなく、大人と同じ形で子供に保障しています。

たとえばあなたやわたしに粘土を無心にこねて表現をしてみるカリキュラムが与えられてきたのも、それがあらゆる意味で大切なことだからです。

わたしたちが子供だったころ、はじめて粘土を見ると、まずそのかたまりに指をつき入れて対象を識別しようとしました。

そして粘土できれいな団子ができるとバンザイし、粘土に乗っかる楽しみを発見すると嬉々として踏みつぶしたはずです。

足で踏む快感を十分に堪能すると、やっとわたしたちは本格的に落ち着いて粘土でコーヒーカップやケーキなど具体的な造形にとりくみました。

幼児は工作をすることで自分をとりかこむ空間を認識し、さらには自分の想像を世界に出現させることの第一歩を踏み出し始めます。

わたしたちにとって子供の時代に大人に見守られながら工作を思う存分したという記憶は、自己という新しい熱を社会にもたらすために欠かせない最初の踏み切り板になるのです。

さて、すっかり大人になったわたしやあなたは、生きるためにたくさんの言葉を手に入れ、その代償として固定観念でがんじがらめになったとても窮屈な毎日を送っています。

言葉を捨てることの価値を、S.I.ハヤカワも主著「思考と行動における言語」で以下のように摘示しています。

「色づけを避けることは、公正で、公平なことであるばかりでなく、さらに重要なことだが、経験の現地に対するよい地図を作るためでもある。強い先入観をもった人は、よい地図を作ることができない。なぜならかれは、敵はただ敵としか見られないし、友も、ただ友としか見られないからである。」

ゴン太くんというかたちの定まっていない子供達が街にたくさん繰り出してわたしたち大人を固定観念から自由にしてくれること、児童の権利条約は他ならぬそのためにできるだけ幅広い道路をこどもたちに用意しようとしています。(私見)

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2006/04/25

異形の少年というスイッチと、やわらかい刑法

写真店主殺害:16歳少年逮捕「誰でも良かった」 和歌山(毎日新聞)
「24日午後7時半ごろ、和歌山県高野町高野山、久保田写真館の台所で、経営者の久保田耕治さん(71)が血を流して倒れているのを近所の男性が発見し、119番通報した。既に死亡しており、県警橋本署が殺人容疑で捜査を開始。同11時ごろ、同県在住の高校2年の少年(16)が「高野山で殴ってけがをさせた」と大阪府警四条畷署に出頭し、25日未明、県警に殺人容疑で逮捕された。少年は「(久保田さんが)死んでもいいと思った」「むしゃくしゃした気持ちを晴らすため、誰でも良かった」と供述しており、橋本署は動機などをさらに追及している。」

憲法の31条をご覧下さい。

第31条〔法定手続の保障〕

「何人も,法律の定める手続によらなければ,その生命若しくは自由を奪はれ,又はその他の刑罰を科せられない。」 

1828年、聖霊降霊日の翌日、少年は突然現在のドイツのバイエルンである、ニュールンベルグの町中に汚い身なりで現れました。

直立することも足を動かすこともままならないようでしたが、なんとか前に進もうとしているようでした。

言葉を話せない少年を街の人達や警官達は訝しみましたが、紙とペンを持たせると「Kaspar Hauser」とためらいなく名をしたためたため、それ以後その野生児はカスパー・ハウザーと呼ばれるようになりました。

彼の手には奇妙な手紙が握らされていました。

一通には「この子は 1812年 4月 30日に生まれました。私は貧しい娘でこの子を育てることが出来ません。この子の父は既に死にました。」

今一通は「あなたに忠実にお仕えする一人の子供をお送りします。この子は1812年私の家に置き去りにされていた子です。私は10人の子供を抱える貧しい労務者で家族を養うのがやっとでした。」

どうやら彼は17になるまで、一度も地下牢を出ることなく育てられたらしいということがわかり、町の税金でしばらくは塔のなかで育てられることになりました。

当時の知識層は少年に大変な興味をもち、その後いろいろな人に引き取られることになりますが、ドイツ刑法学の父フォイエルバッハも身元引受人の一人であり、少年の生い立ちや、背景を興味深く調査しています。

少年は徐々に言葉を覚えることと並行するように、たどたどしくも人間らしい感情を取り戻し始めましたが、彼の容姿から、「あの少年は王族の血統なのではないか」という噂も日増しに高くなり、それを裏付けるように二度謎の襲撃を受けました。

実はフォイエルバッハは当時、自由と独立のために筆を執っていたため、これをうとましく思った国王により、アンスバッハの控訴院長に左遷されていましたが、その身分ゆえ少年に関する公にできない情報も多く知り得ただろうことが推測されています。

フォイエルバッハは1832年、それら資料をもとにカスパー・ハウザーに関する本を出版し、そのなかで繰り返し「カスパー・ハウザーはすり替えられた王の子供なのだ」と暗喩していますが、その数ヶ月後フランクフルトで急死しました。

カスパー・ハウザー自身も同じ1833年の数ヶ月後、二度目の暗殺をかわしきれず、フォイエルバッハの後を追うように21歳で命を落としています。(以上参照:カスパー・ハウザー 地下牢の17年 フォイエルバッハ 福村出版

後に近代刑法学の範とされることになったババリア刑法典を起草した彼は、「罪刑法定主義」という重大な刑法の根本原理を産み落としました。

それはあらかじめ罪として定められていた行為でなければわたしたちは罪を問われることはなく、罰されることもないという法理です。

現代に暮らすわたしたちの憲法の中にもそれは31条で表現されています。

罪刑が事前に法定されていない世の中ではわたしやあなたの生きるための自尊心の行方は、王や神の代理人を名乗る人達(官吏)の思惑次第となってしまいます。

罪刑法定主義を刑法の中心に据えるということは、すなわち自分の人生のマスター・キーを王や神の代理人を名乗る人達に渡さないという憲法の国民主権原理を裏打ちする効果をもたらしているのです。(私的解釈)

フォイエルバッハ以前の刑法は法律は完全であるという視点から人間を処断し、権力者による恣意的な運用が行われ、身分による不平等な取扱いがなされ、刑といえば死刑か身体刑しかありませんでした。

これに疑問を持ち、動機の重視や情状酌量の配慮をもって人間の側から刑法を再構成することを促したフォイエルバッハの思想には、17年間人が牢獄で生活させられるとどのようになってしまうのかをまざまざと見せつけた、カスパー・ハウザーの生涯が少なからず影響していると考えられます。(私見)

和歌山県で16歳の少年が激情に身を任せて人を殺めてしまいました。

突然現れた異形の少年を前にしたとき、フォイエルバッハが”柔軟な刑法”という新しいフレームワークを拾い上げたように関わるのか、あるいは”不規則分子による不規則事態なのだ”と全く思考の範疇外におくのか、その選択はわたしたちそれぞれに任されています。


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2006/04/20

法隆寺が問いかける命題と証明の失敗

法隆寺の東大門に落書き、文化財保護法違反容疑で捜査(Yahoo)
「19日午前11時45分ごろ、奈良県斑鳩町の法隆寺で、東大門(国宝)のヒノキ製の柱に「みんな大スき」と彫られた落書きがあるのを土塀を測量していた県教委文化財保存事務所職員が見つけた。県警西和署は、悪質ないたずらとみて文化財保護法違反などの疑いで調べている。調べでは、落書きは縦約50センチ、幅約8センチ。高さ約1メートルの位置で、石のような硬いもので刻まれたらしい。寺によると、午前7時の開門時には異常はなかったという。法隆寺では今年2月、西室(同)の木製格子が切り取られ、室内にあった文殊菩薩(ぼさつ)像(同)の模像が盗まれる事件が起きている。

文化財保護法の195条をご覧下さい。

第195条

「重要文化財を損壊し、き棄し、又は隠匿した者は、5年以下の懲役若しくは禁錮又は30万円以下の罰金に処する。」

文化財保護法とは、文化財を保存・活用し、わたしやあなたの文化的充足を図るとともに世界文化に貢献することを目的として制定された条文群です(1条)。

文化財保護法が保護する文化財は、有形文化財、無形文化財、民俗文化財、記念物、文化的景観、伝統的建造物群に分類されます(2条)。

法隆寺の東大門は単なる重要文化財ではありません。

それは重要文化財の中から、とくに価値の高いものを文化審議会の答申にもとづき指定された国宝です。

そもそもこの文化財保護法は、今回らくがきが刻まれた法隆寺自身の昭和24年に起きた火災が契機になって立法されています。

このときの火災は1300年の歴史を持つ壁画を一瞬で瓦礫と化しています。(その日、1月26日は今も「文化財防火デー」として定められています)

「みんな大スき」というフレーズは思春期に近い人の犯行を想像させますが、思春期とは一面で、自分の責任と自分を囲む状況との関連性をなんら実感できない季節だともいえます。

そこに用意されているアスファルトやビルディングや車や学校や東大門のような重要文化財は、物心がつくとすでにそこに用意されていたものであり、それを毀損することの責任が自分自身にペイバックされることをイメージし難いものです。

失敗を経験した絶対時間数が少ない以上、それは無理からぬところがあります。

天才にとって状況との接続性を実感できない季節は、格好の創造の舞台となるかもしれませんが、たとえばわたしのような凡人にとってそれはお寺さんの門に思い出を刻んでみるようなちょっとしたスリルによる暇つぶしが必要な季節であったかもしれません。

今後どうすれば結果として文化財を落書きから守っていけるのか。

それは誰でもない、自分の状況と自分の責任の接続性をすっかり認めているわたしやあなた、そして文化庁に対して法隆寺から何度も問いかけられている命題だといえます。

少なくとも文化財保護法という公理では国宝の安全という命題を証明できていないことを、認識すべき時期にはきているようです。

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2006/04/16

少年法のない空間でマスカレードを踊ろう

兄弟げんか:高1長男死亡、中2二男を補導 長崎(毎日新聞)
「15日正午ごろ、長崎市のマンションに住む女性(41)から「子供が兄弟げんかをして、兄がぐったりしている」と119番があった。市消防局の救急隊が駆け付けると居間にいた高校1年の長男(15)は既に心肺停止状態で、病院に搬送したが午後3時35分に死亡した。長崎県警稲佐署は長男を殴ったりけったりしたとして中学2年の二男(13)を補導、傷害致死の非行事実で県中央児童相談所に通告した。調べでは、同日午前11時50分ごろ、テレビゲーム機の後片付けを巡り、長男が二男に「ゲームをしないなら片付けろ」と注意したところ、二男が「うっとうしい」と反論。長男が手を出して取っ組み合いのけんかとなった。二男が長男の腹を足でけったり、頭や腹を手で殴り続けたところ、ぐったりしたという。長男には外見上の出血はなく、司法解剖して死因を調べる。」

少年法の第3条をご覧下さい。

第3条(審判に付すべき少年) 

「次に掲げる少年は、これを家庭裁判所の審判に付する。
一 罪を犯した少年
二 十四歳に満たないで刑罰法令に触れる行為をした少年
三 次に掲げる事由があつて、その性格又は環境に照して、将来、罪を犯し、又は刑罰法令に触れる行為をする虞のある少年
イ 保護者の正当な監督に服しない性癖のあること。
ロ 正当の理由がなく家庭に寄り附かないこと。
ハ 犯罪性のある人若しくは不道徳な人と交際し、又はいかがわしい場所に出入すること。
ニ 自己又は他人の徳性を害する行為をする性癖のあること。

2 家庭裁判所は、前項第二号に掲げる少年及び同項第三号に掲げる少年で十四歳に満たない者については、都道府県知事又は児童相談所長から送致を受けたときに限り、これを審判に付することができる。」 

少年法とは、非行少年への調査・審判の手続とその処分が規定してある法律です。

少年法にいう非行少年とは、3条にある犯罪少年・虞犯少年・触法少年の総称です。

うち犯罪少年とは3条1項1号にある罪を犯した少年のことであり、虞犯少年とは同条同項2号にいう14歳に満たないで刑罰法令に触れる行為をした少年のことであり、更に触法少年とは同条同項3号にいう一定の言動等から将来刑罰法令に触れる行為をするおそれのある少年のことをいうことになっています。

兄弟喧嘩で兄を殺してしまった13歳の少年は検察官を介在させることなく児童相談所に通告されましたが、家庭裁判所は果たして児童相談所所長がこれを送致してくるまで彼に対して審判権を行使することはありません。

それは単に家庭裁判所の審判権の範囲を画するためではなく、彼の責任能力の限界をも加味したものであり、行為時に刑事責任年齢に達しない人の処置をまず児童相談所に考えさせる趣旨だからです。(広島家庭裁判所 決定 昭和45年5月18日)

ここで刑事責任年齢とは、刑法41条にいう14歳未満の人のことであり、彼らには刑法のいう責任を問い得ません。

刑法にいう責任とは、「普通の常識人ならそのような行為はしないだろう」と社会から非難を受けるに値する条件のことで、たとえば自分が今どんな行為をしているのか未だよく理解していない年の子供の起こした結果に対して、国家は唐突には刑罰という石を彼に抱かせることはありません。

それは酷だからというよりも、反法規行為があれば責任があろうがなかろうが即処罰するのだという統治アルゴリズムのごときは、権力受託者(国家)と権力委託者(国民)との関係において健全な状態だとは言い難いためです(私的解釈)。

同じ趣旨でたとえ刑法にいう14歳、すなわち責任能力が問い得る年齢になっていた人が罪を犯したとしても、刑法に優先する特別法である少年法が出てきて、 14歳以上 20歳未満の人を原則保護処分に科することにしています。

少年時代とは一面で、その裸の感情を臆面もなく露出させることによって必然的に自らも傷を負い、多くを学んでいく実験場です。

もし社会にそのような学習時期が法律的にも確保されていなければ、裸の感情と社会の限界までの距離を知り得ないまま大人になってしまった人達ばかりによる、仮面舞踏会のような脆く白々しい毎日が訪れることになります。

わたしやあなたがたくさんの傷を負いながら、なんとか自分の裸の感情と社会性を併存させて生きてこれたのも、権力受託者と委託者間の法律的緊張が保たれていたからかもしれません。

少年法が非行少年を厚く保護しすぎていると大人になったあなたやわたしが感じる瞬間があったのなら、自分の歴史を振り返る価値はありそうです。

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2006/03/28

孤立させられないために孤立させよう

海自いじめ:1等海士が自殺 両親が国と元隊員を提訴へ(毎日新聞)
「両親や弁護士によると、護衛艦「たちかぜ」勤務だった1等海士は04年10月、東京都内で鉄道自殺した。先輩隊員の元2等海曹(35)=暴行罪などで懲役2年6月、執行猶予4年が確定。懲戒免職=が半強制的に誘い、艦内のCIC(戦闘指揮中枢)でサバイバルゲームと称してエアガン、ガス銃で撃つ執ようないじめを繰り返すなどしたため、自殺に追い込まれたと述べる方針。また上司らは、元2等海曹の後輩いじめに気付きながら艦長への報告を怠り、自殺を未然に防がなかったと主張することにしている。」

教育基本法の第10条をご覧下さい。

第10条(教育行政)

「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。」 

大量の人が撃たれたり燃えたりしながら死んで戦争に負けるまで、わたしたちの国の教育は国家が主導権を握り、子供達は「天皇が統治権の総攬者である(天皇だけが主権者である)」と教育されていました。

戦争が終わると主権者の意味は書き替えられ、それは私たちひとりひとりに分在しているのだということになりました。

そして教育の現場でも、制度と内容と方法のすべてが上からの押しつけではなく、下から、すなわち国民の意思を反映して行われるべきであるという思想が色濃く反映するようになりました。

この民意との直結が、戦後の教育行政における民主主義の原則です。

民主主義とは身も蓋もなくいってしまえば全体の利益を優先製造する装置であり、つまり少数派に属する個体ほど常に無力感に襲われ続けるからくりになっています。

どのような孤高な芸術家もたった一人で生きていくことはできず、大なり小なり己の個性と集団帰属のための要件との折り合いを身につけざるを得ません。

数の論理が正の論理になりやすい民主主義社会では有力視されるクラスタに自らを所属させなければ、有力な流れへ向き付けされた人的ネットワークのなかでいつか孤島と化してしまいます。

如何に有力な集団に所属するかが、より大きな収益を得るために重要になり、親は今日も子供にそれを熱心に勧め続けます。

個体が心細さの中で、自らの所属するクラスタをより色濃く感じたいのならば、クラスタにふさわしくないと思われる個体をはじき出すという「いじめ」の儀式もまた、他のクラスタへのデモンストレーションを兼ねたネガティブな知恵になってしまいます。

「イジメはダメですよ」と諭す先生や親こそが誰よりもその仕組みを理解し、職員室や町内会で孤立することを恐れているのですから、そのセリフは一種の循環論法になってしまっています。

教育基本法10条は教育条件の整備を国民の意に即して行われるという原則を定め、血まみれになった国家主義教育との決別を宣言しています。

しかし教育行政が民主主義、すなわち数の論理をもって運営せざるを得ないのなら、こどもたちにいじめの愚かさを諭す言葉は親でも先生でも裁判官でもない、孤独になることを無意味に恐れない哲学者の口から聞かされる必要があります。

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2006/03/08

世田谷ゲーム脳講演会騒動とパーシグのジレンマ

ゲイムマンが世田谷のゲーム脳講演会に行ってきた(ゲイムマンのブログ IT Media +D Blog)
「・森教授を批判する人は全員、「ゲーム会社と何らかのつながりがある」ことになってるらしい。「サンデー毎日」で、京都大学の櫻井教授が、森教授の胡散臭さを指摘したことに対しても、「京大はゲーム会社から70億もらってますから、本当に言いたいことは言えないんでしょう」・「少年犯罪が増えてない」ことを指摘されたのに対し、森教授の回答は、「私は日本人です。日本のこどもたちが壊れていくのを黙って見過ごせますか?」・それ聞いた聴衆が拍手喝采。」

憲法の96条をご覧下さい。

第96条〔憲法改正の手続〕

「この憲法の改正は,各議院の総議員の3分の2以上の賛成で,国会が,これを発議し,国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には,特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において,その過半数の賛成を必要とする。(以下略)」

世田谷区がゲーム脳理論を掲げる森昭雄氏の講演をひらいたことがブログ上でちょっとした話題になっています。

ここでゲーム脳とは、『幼いころからテレビゲームに親しんでしまったため、ゲームをしていないときでも働きが鈍くなってしまった脳』という仮説を意味します。

「ゲーム脳理論」擁護派と糾弾派は、「どちらが科学なのか?」を争っているとも言い換えられます。

ところで現代憲法も一つの社会科学理論であると言い換えることが許されるなら、「科学とは何か?」という定義のゆくえは、憲法改正を定める憲法96条の意味づけをずいぶんちがったものにするはずです。

ここでなにが科学なのかを検証するうえで非常に示唆的な文章を、ロバート・M・パーシグの名著、『禅とオートバイ修理技術』から引用しましょう。


「父さんの考えでは、現代人の知能が昔の人とくらべてそれほど優れているわけではないんだ。知能指数は大して違わない。賢さにかけては、インディアンも中世の人間も私たちとまったく同じさ。ただ考え方が全然違っているんだ。その情況がね。つまり現代人に原子や素粒子や光子や量子が存在するように、彼らには、それとまったく同じく幽霊が存在するんだ。その意味において、父さんは幽霊の存在を信じているんだよ。現代人の心のなかにも幽霊や霊魂が存在するんだ」

「どういうこと?」

「つまり、物理学や論理学の法則、それに数の体系や代数置換の原理……こういったものはすべて幽霊さ。信じているからこそ、現実に存在してるように思えるだけだ」

「俺には現実のように思えるけどね」とジョンが口をはさむ。

「ぼくには分からないよ」とクリスが言う。

だから私は続ける。「たとえば、引力や引力の法則がアイザック・ニュートン以前にも存在したと考えるのは、まあ私たちにとってはごく当然のことだ。なにしろ、引力が生じたのは十七世紀になってからだ、などと考えたら、それこそ気違いじみて聞こえるからね」

「確かにそうだ」

「だとすれば、この法則ができたのはいつなんだろうか?もともと存在していたものなんだろうか?」

ジョンは眉間にしわを寄せて、私の言わんとすることを測りかねている。

「つまり、引力の法則は、地球ができる以前にすでに存在していたことになる」と私は言う。

「太陽や星々が誕生する以前、いや原始宇宙が生成される以前にね」

「そのとおりだ」

「存在していたけれども、それ自体には、質量もエネルギーもなかった。人間は存在していなかったので、心のなかにはなかった。それに宇宙も生じていなかったので、当然そのなかにもなかった。結局どこにもなかったことになる。それでも引力の法則は存在していたと言うのかね?」

ジョンの確信が薄らいでゆく。

「たとえ存在していたとしても、私には、それがどうして非存在になってしまうのかまったく分からない。考えられることは、引力の法則は非存在に関するあらゆる試金石をすり抜けてしまったということだ。だからその引力の法則にはなかったはずの非存在の特質が一つとして考えられないのだ。また同時に、あったはずの存在の科学的特質もまったく考えられない。それにもかかわらず、引力の法則が存在していたと信じるのは、単なるこの世の"常識"なんだよ」

[出典:ロバート・M・パーシグの「禅とオートバイ修理技術」(めるくまーる社)]



ここでは科学とは、人間以前に存在する絶対真理のことなのか、あるいは科学とは人間が文化として利用する相対価値のことなのかという問題が提起されています(私的解釈)。

科学法則はある意味ただの記号の羅列であり、確かにある面でそれを妄想と呼ぶことも可能です。

しかしそれでもなお、その記号の羅列に対して「それは科学的である」という称号を与えられるのは、その記号自身が「拒絶も追認も受け入れる、反復可能な作用を記述したもの」であるからにほかなりません。(なぜ人はニセ科学を信じるのか マイクル・シャーマン 早川書房 より)

逆に言えば非科学的な物とは、追認や拒絶を許さない、肯定派の頭の中からだけ直接記述されることで存在を証明する観念ということになります。

UFOや幽霊、マイナスイオンや血液型性格判断といった、信用する人達の頭の中からの記述でしか表現できないものは、科学と呼ぶべきではないのです。

もちろん一旦打ち立てられた科学も新しい事実確認により、いつの日にか否定される日がくるかもしれません。

しかしそのとき私たちの手元には膨大な量の追認と事実確認が残り、それによりそれまでよりも一回り大きなパラダイムを手に入れることができるのです。

その意味で科学は相対的であってもならず、また絶対的でもあってもならないといえます。

憲法96条の改正権とは、憲法制定権力と同質であり、しかも制憲権は万能であるから、憲法自身の枠には拘束されないのだとする無限解説も存在し、また逆に憲法改正権は憲法自身を超えられないとする限界説も存在します。

もし憲法という社会科学理論を「絶対真理の発見なのだ」と極端に定義してしまえば、憲法はそれ以上の成長を憲法自身によって拘束されることになり、憲法改正権議論における限界説に偏ることになりますが、逆に憲法理論とは「時代の主観的な道具、相対真理の創造なのだ」と極端にすれば、憲法制定権力という観念そのものも幻に消えてしまう危険を孕むことになるでしょう。

通説は、実定憲法には自然法(憲法以前の普遍の法)が上位し、実定法の効力はその自然法への適合・不適合によって決せられるため、たとえば国民主権のような自然法的原理に向かっては憲法改正権も制約されるのだと考えます(自然法論的限界説)。

つまり自然法論的限界説によれば、憲法は全体として相対的な道具の創造ではあるものの、その中には国民主権や人権尊重主義、平和主義、憲法改正国民投票制といった、すでに相対真理とは呼べないほどの現実による試行が尽くされた絶対真理を同時に孕んだ存在なのだということになりそうです(極私見)。

そしてその通りならば、憲法という社会科学法則を改正しようとする議論にあっては、特に動かすべきではない条項に関してわたしたちは冷静な視線を保つ必要があることになるでしょう。

ゲーム脳理論を提唱している方は、論文を学会誌に掲載せず、講演では質疑応答時間を長く取らないそうですが、一方的な主張や感情論では他人がそのデータを検証することを許し、また反証を許すという科学と呼ぶための不可欠な要素を欠くことになります。

特にゲーム脳理論というものに賛成するものでも反対するものでもありませんが、もし本当にゲームによって「日本のこどもたちが壊れていく」という事態を憂慮されているのなら、その理論が反復可能な作用を記述した物であることを証明するための拒絶と追認を受け入れるための材料提供は不可欠です。

現に憲法はこれからも科学に近いものであり続けるために、96条でそうした作業のための余地を残し、それが為に私たちが拠り所にしていくに足りるといえているのです(私見)。

 

 

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2005/12/07

母による18年の軟禁とまぼろしの白帆

母が娘を18年“軟禁”義務教育受けさせず…福岡(読売新聞)
「母親は、少女を就学させなかったことについて、「物を壊したり、排せつがうまくできないなど発育の遅れがあり、外に出すのが恥ずかしかった。他人の迷惑になるとも思っていた」と説明した。」

児童憲章の全文をご覧下さい。

われわれは、日本国憲法の精神にしたがい、児童に対する正しい観念を確立し、すべての児童の幸福をはかるために、この憲章を定める。

児童は、人として尊ばれる。
児童は、社会の一員として重んぜられる。
児童は、よい環境のなかで育てられる。

1 すべての児童は、心身ともに健やかにうまれ、育てられ、その生活を保障される。

2 すべての児童は、家庭で、正しい愛情と知識と技術をもって育てられ、家庭に恵まれない児童には、これにかわる環境が与えられる。

3 すべての児童は、適当な栄養と住居と被服が与えられ、また、疾病と災害からまもられる。

4 すべての児童は、個性と能力に応じて教育され、社会の一員としての責任を自主的に果たすように、みちびかれる。

5 すべての児童は、自然を愛し、科学と芸術を尊ぶように、みちびかれ、また、道徳的心情がつちかわれる。

6 すべての児童は、就学のみちを確保され、また、十分に整った教育の施設を用意される。

7 すべての児童は、職業指導を受ける機会が与えられる。

8 すべての児童は、その労働において、心身の発育が阻害されず、教育を受ける機会を失われず、また、児童としての生活がさまたげられないように、十分保護される。

9 すべての児童は、よい遊び場と文化財を用意され、わるい環境からまもられる。

10 すべての児童は、虐待・酷使・放任その他不当な取扱いからまもられる。あやまちをおかした児童は、適切に保護指導される。

11 すべての児童は、身体が不自由な場合または、精神の機能が不十分な場合に、適切な治療と教育と保護が与えられる。

12 すべての児童は、愛とまことによって結ばれ、よい国民として人類の平和と文化に貢献するように、みちびかれる。

児童憲章は、戦後間もないころ、この国が新しい憲法の精神を子供達にも投射して打ち立てた憲章です。

ここで憲章とは物事の指針を意味するため、そこには罰則という概念が存在しません。

我々は全て同じ方向に歩もうとしているというのが当然の前提となっているわけです。

それは敗戦時という思想の真空状態において「児童憲章に書かれているような視点がこれまでの我々には欠けていたのだ」という自省的視点が、大人達の間へ極自然に立ち上ってきたことの記録でもあります。

国家というくくりのなかで”戦略”が人間という生き物の根源的欲求より先んじていた時代の反作用として、このような美文が誰の反対にあうこともなく奇跡のように掲げられました。

その後五十余年、憲法の大きな帆は時代の風を受けて右に左に大きくはためいていますが、その脇に掲げられた小さな白帆、児童憲章はもはやないがしろにされているといっても過言ではありません。

デッキの上が忙しくなってくれば、罰則がないという”帆のカタチをした装飾品のひとつにすぎない”児童憲章など、かまっていられるかとでもいうかのごとく、児童をめぐる悲惨な事件が続いています。

国家から帝国主義の”戦略”が抜け落ちたあと待っていたのは、大人がただ生きていくために功利主義で個人的に武装するという新たな”戦略”にすぎなかったのでしょうか。

児童憲章が大人に求める正しい風向きは、一瞬だけ生きることに戦略のなかった、かつての”真空の時代”にこそ見つかるのかもしれません。



法理メール? 

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2005/11/15

ボーイミーツガールと決河したリビドー

16歳少年、受験「頑張ろう」好意と勘違い(ニッカンスポーツ)
「東京都町田市の都立高校1年、古山優亜さん(15)が団地内の自宅で刺殺された事件で、殺人容疑で逮捕された同校1年の少年(16)が、警視庁町田署捜査本部の調べに「高校受験のときに『頑張れ』と声を掛けてくれたのに、高校に入ったら無視されて憎くなった」と供述していることが14日明らかになった。少年は優亜さんに好意を持たれていると勘違いしていたことが、殺意の引き金になった可能性が高くなってきた。」

少年法の51条をご覧下さい。

第51条(死刑と無期刑の緩和)

「罪を犯すとき18歳に満たない者に対しては、死刑をもつて処断すべきときは、無期刑を科する。

2 罪を犯すとき18歳に満たない者に対しては、無期刑をもつて処断すべきときであつても、有期の懲役又は禁錮を科することができる。この場合において、その刑は、 10年以上15年以下において言い渡す。」 

少年が一人の少女に恋心を描く映画のは”ボーイミーツガール”と呼ばれ、「小さな恋のメロディ」の昔から映画ファンに好意を持って迎えられるジャンルのひとつです。

その理由は互いに一人の子供として育ってきた少年と少女が、親兄弟ではない異性に対して”特別な好意”という初めての感情を抱き、他人に自ら関わろうとするお話の中に、人間という”ネットワークを作る生き物”の好ましい萌芽を誰もが見るからのはずです。

ボーイミーツガールムービーは、やがて計算や損得で相手を探す人がたくさんいる社会へ足を踏み入れる前の、たどたどしくも生物としてはより本源的だった過去の私達自身を思い起こさせてくれる愛すべき映画だといえます。

かつてオーストリアの神経病学者、フロイトはあらゆる問題の根底に人間が抱える抑圧された性衝動が横たわっていると分析し、生きる時間すべてを(密かに性的に)突き動かすエネルギーの源のことを「リビドー」と呼びました。

そのエネルギーはあまりに強烈なため、私達は成長しながら如何にしてその「皮膚下の猛獣」があばれださないよう調教していくのかを学びます。

私達が大人になるまで支払ってきた、音楽CDや、漫画、ダンスフロアの入場料や、スポーツ観戦、芸能人のポートレイト等に対する大金のほとんどは、「リビドーを上手にコントロールし、正気を保つために支払ってきた」とさえ言い換えることも可能です(極私見)。

フロイト学派に対しては、後の学派、弟子たちが、フロイトのあまりに性的分析に反発し、より穏やかな学派も立ち上げました。

しかしフロイトが人類史上初めて明るみに出した、人という生き物を底で突き動かしている「性と、同時に死への衝動の存在」の衝撃は、あらゆる学問、あるいはシュールリアリズムといった美術運動に深い影響を与えたのも事実です。

少年がひとりの少女にほのかに恋心を抱くのも、身も蓋もなくいってしまえば、少年や少女を突き動かす”リビドー”の最初の典型的な仕事だとさえ言えます。

それは町田の少年であっても同じでしたでしょう。

ただしもしその過程にあまりに無自覚であるか、あるいは強度に抑圧しすぎ、またはリビドーのコントロールどころか、なんらかの原因で生きている現実感のコントロールさえ失ってしまっていた場合、特に一生の中でもっとも性エネルギーが彼を突き動かす少年期にあっては、ただただ否定されたリビドーは思わぬ形をとって噴出してしまう危険があります。

もはやその決河の前では、憎しみはリビドーが関わっているなどと諭しても意味をなしません。

刑法犯が少年だった場合、少年法51条によって16歳未満の者には刑罰が科されず、 18歳未満の者の刑が緩和される理由も、リビドーとの付き合いが短い彼ら自身の、人の宿命に対して不器用になりがちな年頃を慮っていると心理学的に再解釈することも可能です(私見)。

とはいえ、多くの人がリビドーという意識できない強烈なエネルギーと上手に付き合って大人になっているのが社会です。

そこからすれば、少年のあまりに残忍な犯行の前には、少年法の国親思想が時に不条理に見える瞬間は認めざるを得ません。

なくなられた少女のご冥福をお祈りします。
 


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2005/10/14

少年の死刑と動的な解答

4人リンチ死「犯行時少年」厳刑へ、3事件の殺人認定(読売新聞)
「主文の言い渡しは午後になる見通しで、厳しい刑が予想される。判決が言い渡されるのは、いずれも無職の愛知県一宮市生まれ、A(30)(犯行時19歳)、大阪府松原市生まれ、B(30)(同19歳)、大阪市西成区生まれ、C(29)(同18歳)の3被告。」

少年法の51条をご覧下さい。

第51条(死刑と無期刑の緩和)

「罪を犯すとき18歳に満たない者に対しては、死刑をもつて処断すべきときは、無期刑を科する。」 

少年法にいう「少年」とは、19歳までの人をいいます。

一般常識からすれば、少年時に犯した重罪はすべて罪が軽くなる、あるいは罪が免除されるようなイメージがありますが、51条は犯行時18歳、及び19歳だった人への死刑を禁じてはいません。

少年法という福祉法の傘の下であっても、究極の場合には首をくくると床が抜ける階段が用意されているのです。

被告人が死刑になるのかどうかの基準として、永山事件上告審判決というものが用いられています。

そこでは「 死刑制度を存置する現行法制の下では、犯行の罪質、動機、態様ことに殺害の手段方法の執拗性・残虐性、結果の重大性ことに殺害された被害者の数、遺族の被害感情、社会的影響、犯人の年齢、前科、犯行後の情状等各般の情状を併せ考察したとき」

「その罪責が誠に重大あつて、罪刑の均衡の見地からも一般予防の見地からも極刑がやむをえないと認められる場合には、死刑の選択も許されるものといわなければならない」のだという要件が掲げられています。

その裁判では、被告人が米軍基地内でけん銃を窃取し、東京と京都で勤務中の警備員を射殺し、函館と名古屋でタシクー強盗を働いてタクシー運転手を射殺、さらに東京で学校の警備員を狙撃したという事案に対して、犯行当時19歳の少年だったにもかかわらず結局死刑判決が確定し、これが執行されています(最高裁 昭和58年7月8日)。

今回の少年達の誰かに死刑判決が出るのであれば、この永山事件上告審判決基準に照らして、国家が「死刑以外には許されない行為があった」ものと認定したことになります。

一方少年法は本来、少年の未成熟性を鑑みて、刑罰はやむを得ない場合にとどめることとしている特別法です。

少年法の福祉法としての側面を強調する立場からは、少年法によっても死刑を否定できない51条の存在を疑問視する声もあります。

永山事件を担当したあの遠藤誠弁護士も、少年法の原則は応報主義ではなく教育刑主義のはずであると弁論しています。

但しいつの世も、社会には絶対正解というものは存在しません。

そこで各利益を調整するあらゆる法律は、内部にある種の論理矛盾を実は内包していたほうが、長期的にその存在を強調しえるのだという逆説も見いだせます。

それがなければ多方面からの正論に押されて、法はその形を維持できなくなるのです(私見)。

残虐犯罪への社会感情と、少年保護の精神の衝突は、法が内包するある種の矛盾によってしか解消されえない問題であるかもしれません。

いずれにせよ私たちは動的に解答を出し続けていかなければならない存在なのです。
 


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2005/10/13

焼け野原で子供は次々収容された

小1スーツケース死、7歳男児が閉めたのが原因と判明(読売新聞)
「那覇市久米のマンションで7日夜、小学1年男児(6)がスーツケース内で死亡した事故で、那覇署は12日、一緒に遊んでいた同市の小学2年男児(7)が、スーツケースを閉めたのが原因として、この男児を児童福祉法に基づき、沖縄県中央児童相談所に通告した。」

児童福祉法の第25条をご覧下さい。

第25条〔要保護児童発見者の通告義務〕

「保護者のない児童又は保護者に監護させることが不適当であると認める児童を発見した者は、これを福祉事務所若しくは児童相談所又は児童委員を介して福祉事務所若しくは児童相談所に通告しなければならない。(以下略)」 

児童とは一面で、自分からその権利の存在の主張はおろか、権利が存在することを確認することさえできない未熟な存在です。

それがゆえに大人がいったん彼らを所有物のように扱おうとすれば、いとも簡単にひとつの人生を台無しにすることができます。

児童はまず親に翻弄され、親は生活面で私的社会に翻弄され、私的社会は国家の国策に翻弄されます。

よって児童という存在が、国家へ児童福祉法の敷設を要求せしめたのも当然の論理的帰結といえるわけです(私見)。

日本の児童福祉法はその1条、2条、3条で理念を表していますが、そこには児童への責任は社会全体が負うものであることが明記されています。

子どもの頃に、廃車のトラックの荷台やコンテナに隠れたりするのは、男の子なら誰にでもよくある経験ですが、友達が閉じこめられてしまった場合にこれを大人に通告しないのは必ずしも子供全てによくある事態とはいえません。

この場合、情緒面、行動面に障害がある児童として、要保護児童の範疇となり、児童福祉法の擁護下に入ることになります。

児童福祉法の第25条は非行などのために保護者のもとでは適当な処置をうけられない子供をみつけた人に児童相談所などへの通告を、国民全てに義務づけており、その義務はあなたやわたしにもあります。

それはその子供が非行、すなわち社会が受け入れがたい行為をしてしまった理由を、いったん親から引き離し、変わって私たち社会全体が責任を引き受けて見つけ出そうとする制度です(私見)。

児童はかつて大人の所有物であり、工場の中を走り回る労働力であり、「いまだ使い物にならない小さな大人」でしかありませんでした。

このため戦争に負けた直後、街に放り出された子供達はただただ社会を困らせる収容の対象でしかなく、権利主体性など見つけてもらえませんでした。

しかしあなたや私の暮らす社会は経験を重ねることで確実に成熟しています。

現在の児童を児童福祉法の精神のもとで、あなたや私や国家機関が非行のあった子供を児童相談所に通告することは、かつて未熟な社会に固有の権利主体性を十分認められなかった、子ども時代のあなた自身を救済することも意味しています。



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2005/08/08

野口さんが宇宙に運んだペンシルロケットの燃料は「自信」

ペンシルロケット、宇宙に 野口さんがメッセージ(朝日新聞)

憲法の26条1項をご覧下さい。

第26条〔教育を受ける権利〕

「1 すべて国民は,法律の定めるところにより,その能力に応じて,ひとしく教育を受ける権利を有する。(以下略)」

26条1項は教育を受ける権利を憲法に刻んでいますが、そこには前提として、子供達は皆もともとその可能性を開花させていく権利をもっているのだという考え方が存在します。

そのことを、子供の学習権と呼びます。

最高裁も通称「旭川学テ事件」と呼ばれる判例中で、学習権という観念の存在を認めています。

そしてその学習権を前提に解釈すると、26条1項にいう「教育を受ける権利」とは、子供が能力の発達を保障して、その可能性を発達させるための環境を、国家に要求できる権利なのだと理解できることになります。

ペンシルロケットは1955年、あの糸川英夫博士によって試射された日本のロケット工学に先鞭をつけたものだそうです。

それから約50年たって、たとえ間接的ではあっても、日本の宇宙工学に関する研究は野口さんという温厚なヒーローを送り出し、彼の手によってシャトルで運ばれた国産ロケット第一号、ペンシルロケットという糸川博士の夢は本当に宇宙空間に浮かぶことができました。

成果がでない期間も、それを失敗だと認めることなく、成功するまで続けたならば、体験は全て成功のためのデータ収集だったことに意味を書き換えられます。

それがたとえ50年かかってもです。

しかしそこまでたどり着くには、私たちには自分達の可能性を成功にたどり着くまでの長い旅路の間、ずっと自分を信じ続けることができるための「たっぷりとした自信」という燃料が必要です。

そしてその燃料を私たちにくべるための環境こそ、憲法26条1項「教育を受ける権利」という条文で敷設されるものであり、それを要求せしめる動かさざる根拠が、今も子供達の両手の中にある学習権という権利です。

夢までたどり着いたペンシルロケットと野口さん、早く元気に帰ってきてくださいね。