2007/03/08

我が子が着るは知らぬ者のセーター

紅白バージョンの「おふくろさん」、JASRAC認めず(朝日新聞)
「森さんの所属事務所などによると、付け加えているのは「いつも心配かけてばかり いけない息子の僕でした 今ではできないことだけど 叱(しか)ってほしいよ もう一度」の歌詞。「おふくろさん」は71年の曲で、森さんは77年から作詞家の故保富康午(ほとみ・こうご)さん作のこの部分を冒頭に付けて披露してきたという。 川内さんは昨年末のNHK紅白歌合戦でこのバージョンを聴き、「意に反する改変」だとして、JASRAC上層部に2月20日付の書面で訴えたという。 JASRACは見解で、森さんが歌詞を付け加えて歌う「改変」は川内さんの有する同一性保持権(著作権法第20条第1項)を侵害している疑いがあると指摘。「改変されたバージョンを利用すると法的責任が生じる恐れがあり、利用が判明した場合には利用許諾できない」などとしている。 」

著作権法の20条1項をごらんください。

第20条(同一性保持権)

「著作者は、その著作物及びその題号の同一性を保持する権利を有し、その意に反してこれらの変更、切除その他の改変を受けないものとする。」 

同一性保持権とは、著作物が著作者の意図しない形に改変されることにより、著作者が精神的苦痛を受けることから救済しようとする著作権法の作用です。

それは著作者のおカネと心のうち、心の部分を保護しようとするもので、つまり著作者人格権の一種になります。

心の問題は一身に専属し、譲渡することができませんので、森進一さんにはもともと改変することが著作権法上許されておらず、これを無断で行った場合は同一性保持権の侵害となります。

侵害に至る程度かどうかの判断は、”もしあなたがおふくろさんの作詞家であったとき、付け加えられた歌詞は自分のものと世間が認知することを容認できる程度か”が分水嶺になります。

なぜならそれが著作権者の心を侵害する行為である以上、同一性保持権侵害とは「一般公衆が付け加えられた歌詞も原曲の作詞家、川内康範さんの感性であると認識してしまうこと」を本質とするからです。

つまりいくら森進一さん側が無断改変という行為だけを、とらやの羊羹をもって謝罪にいこうとも、同一性保持権の真の侵害源は除去されることがありません。

侵害の本質を除去するためには、裁判所など公的機関が「付け加えられた歌詞は川内康範さんの意に反するものである」ことを認定し、森進一さん側が費用をもってこの決定内容を広告し、一般公衆に知らしめるという措置が必要になると考えられます。

なぜならワイドショーの報道のみでは、事の真偽が明らかにならず、潜在的に著作者側への”世間の誤解”という侵害状態が続くといえるからです。

著作物はよく自分の子供に例えられます。

自分の子供がある日突然知らないセーターを着て帰ってくれば、親の心が胸騒ぐのもまた当然といえるのです。

 

 

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2006/05/26

芽を吹かせるためだと、如雨露はその口を大きく広げた

格安DVDの販売差し止めを申請 米映画会社(朝日新聞)
「文化庁著作権課は、04年1月1日に施行された改正著作権法によって、03年末まで保護期間があった映画は、保護期間がさらに20年間延長されたとの解釈をとる。「03年12月31日午後12時と改正法が施行された04年1月1日午前0時が接着しているため、改正法が適用される」という説明だ。しかし、「53年に公開された作品は、03年末で保護期間がいったん終了して、パブリックドメイン(共有財産)になった」と判断、廉価版などの販売をする事業者もいる。」

著作権法の第54条第1項をご覧ください。

第54条

「1 映画の著作物の著作権は、その著作物の公表後70年を経過するまでの間、存続する。(以下略)」

すごいアイディアや美しいメロディが生まれたら、それを生んだ人の権利を法律で守らなければならない、そこまではわたしたちはすぐわかります。

ではいったい、その権利は何年ほど保護すれば妥当だといえるでしょうか。

本質的には、そのアイディアのために投資した金額や時間に比例して保護年数を上げればよいというものでもありません。

なぜならそれでは著作権は大きな資本をもつ法人ばかりが所有することになり、手段を持たない才能あふれる人が世に出る機会は失われてしまうからです。

結局のところ、わたしたちが著作権のようなアイディアを保護する法律を整備することで待つものは、わたしたちに新しい世界観をもたらしてくれる新しい才能の可能な限りの成長なのかもしれません。

彼が芽を懸命に吹かそうと動機づけるためには、事前に育成に十分な法的環境が用意されていなければなりませんし、それが社会の機構や意識に十分貢献したならば(しなくとも)、彼の死後も作品のもたらす果実を彼の家に届けるという敬意も整備されている必要があります。

映画の場合、そのための期間は50年はなく70年なのだと、2004年に著作権法が改正されたところです。

映画著作物とは、映画フィルムに固定された劇場用映画及びビデオテープ・ビデオディスク等の固定物を問わず、視覚的又は視聴覚的に映画類似の効果を生じさせる著作物のことをいいます。

ただしあなたもご存知のとおり映画製作には多数の人が関わりますが、そのすべてが映画著作権者ということになると混乱が起こり流通を阻害することは間違いありません。

このため著作権法の16条は映画著作物の著作者を監督、プロデューサー、撮影監督、美術監督など映画の全体的形成に創作的に寄与した人だけに限定しています。

また第29条の1項は、監督等の著作者が映画製作者と製作参加契約を締結しているときには、映画著作物の著作権が映画製作者に帰属するとしています。(参照:有斐閣 法律学小辞典

すなわち映画著作物の場合、監督やプロデューサーなど実質的な作品の母親に法が直接対価を保障しなくとも、映画制作会社から間接的に対価が支払われることになっているわけで、その製作会社の著作権を保護するのもまた、間接的に著作権者を育成する環境を整えることにはなります。

ただし著作権法はれっきとした国内法ですので、その再構築も国民主権原理が支配していなければなりません。

一方で十分保護の終わった名作に、こどもたちがおこづかい程度で接することができるというのも国民にとって大きな利益であり、それを考慮する必要がないのなら著作権は永久に保証すればよいだけなのです。

店頭にローマの休日が500円で並ぶ現実と、対する製作会社の要求とのバランスは、まず第一にわたしやあなたが考える問題ではあり、その前段階で外圧が自由に書き換えていくはずではありません。




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2006/04/09

I See A Red Door And I Want It Painted Black

中国が公演で披露の曲「検閲」と、ミック・ジャガー(CNN)
「中国・上海で8日に公演する英人気ロックバンド、ローリング・ストーンズのボーカル、ミック・ジャガーさんは7日の記者会見で、中国当局から持ち歌のうち、「5曲を歌わないように」との検閲を受けた事実を明らかにした。 同バンドによる中国本土でのコンサートは初めて。 曲名などには具体的には触れなかったが、「セックス」を前面に出した曲風が禁止要因とみられる。ジャガーさんは、「予想はしていた。検閲を受けずに中国に来られるとは考えていなかった」と指摘。 」

旧出版法の3条をご覧下さい。

第3条

「文書図画を出版するときは、発行の日より到達すべき日数を除き3日前に製本2部を添え内務省に届出べし」 

検閲とは、国家が国内における表現行為を調査し、場合によってはそれを変形・禁止して、国内の思想を恣意的な方向に誘導する手法です(私的定義)。

ストーンズが演奏する以前にその歌詞にクレームをつけるようなことは事前検閲と分類され、思想発達の根をハナから折ってしまう国家管理行為です。

国家がわたしやあなたの代理人であるはずの日本では、検閲は手段と目的が入れ替わってしまうことを意味しますので、日本国憲法 21条2項は、一切の検閲を禁じています。

欧州における禁書目録の歴史など、検閲は古くから市民が自生的にその思想を自由に発達させることを恐れる権力側に用いられてきました。

市民が主体性を存在の根源から希求した、フランス革命やアメリカ独立革命など各市民革命では、検閲の撤廃が叫ばれその結果各新憲法に検閲の禁止がうたわれました。

わたしやあなたの国でもひとごとではなく、明治時代の出版法は出版に際してあらかじめ内容を内務省に届け出ることを要求していました。

1949年に出版法は廃止されたとはいえ、国家による検閲類似の行為がわたしやあなたの国でも完全に廃止されているとは断言し難く、現実的にはたとえば教科書作成の現場等でミディアム・コントロールを受けているといわざるをえないでしょう。

(学説上は教科書検定は、”書籍として発売することは自由であり、検閲には当たらない”と考える立場が通説的です。)

赤いドアの国、中国でミックジャガーは予想していた検閲の洗礼を受けました。

しかし自由の国を自称するアメリカでさえ、つい先般テロ対策と称して国内の通信内容を令状なしで盗聴していたことが暴露されたばかりです。

ひょっとすると実質的な検閲というものが完全に存在しない国家とは、努力目標としての単なるファンタジーなのかもしれません。

しかしながら少なくとも、検閲がその国でどの程度あからさまに行われているのかは、民度成熟を図るバロメータとしては機能するはずです(私見)。

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2006/04/03

竜助さんの旅立ちと手向けられた21条

竜助さん死去:「アホ、ボケ」紳助号泣(毎日新聞)
「オレと出会わなければ売れることもなく、普通の人として生き急ぐこともなかったんじゃないか。去年、漫才をやっておけばよかった」と唇をかみしめた。」

憲法の21条をご覧下さい。

第21条〔集会・結社・表現の自由,検閲の禁止,通信の秘密〕

「集会,結社及び言論,出版その他一切の表現の自由は,これを保障する。(以下略)」 

憲法の21条は、わたしやあなたに表現することを国家からむやみに妨害されないことを保障しています。

内心における思想や信仰は、外部に表明され、他者に伝達されてこそ社会的効用を発揮するという意味で、表現の自由はとりわけ重要で在ることは誰にでもわかります。

表現の自由を支える価値は二つあり、これらによって表現の自由の優越的地位が導き出されるのだと学説上いわれています。

そのひとつが個人が言論活動を通じて自己の人格を発展させるという、個人的な価値、いわゆる「自己実現の価値」。

いまひとつが言論活動によって国民が政治的意思決定に関与するという、民主政に資する社会的な価値、いわゆる「自己統治の価値」です。

「自己統治の価値」の方は、話が具体的でなにをどうすればいいのかわかりやすいのですが、「自己実現の価値」のほうはどうにも観念自体が抽象的です。

憲法学者の芦部信喜によれば、それは「個人が言論活動を通じて自己の人格を発展させるという個人的な価値」なのだとか。(参照:憲法 芦部信喜 岩波書店

A.H. マズローはその欲求段階説で自己実現のことを、「自分にしかできない固有の生き方にたどり着くこと」なのだと説明しています。

個人的には、表現の自由にいう「自己実現の価値」とは、「生まれてきた意義というものが、目に見える形で自分にも確かめられる人生」なのだと、つたなく理解しています。

もちろん自分にとって手触りでそれが確認できなくとも、生まれてきた意義というものは誰にでもあるはずだと信じたいものですし、事実そういう面も必ずあります。

(名匠フランク・キャプラが万人に語りかけた「素晴らしき哉、人生」を思い出してください)

しかしバレンタインにチョコを送ればホワイトデーにお返しが欲しくなるように、人間とはいつも感触を確かめたい動物です。

スタートを同じくした人間が一方が成功者となってしまい、一方が少なくとも外形上は取り残されてしまった時の人間のあせりというものは、きれいごとを別として、齢を重ねるほどよく理解できるのかもしれません。

Wikipediaによれば竜助さんがもともとスポットライトを浴びたのは花月劇場の進行役をしていた竜助さんに紳助さんが声をかけたのが始まりなのだとか。

二人の乱暴な口調の漫才はお茶の間から批判を浴びながらも、新しい笑いの方法論を確かに築き上げました。

解散後の竜助さんは、自分も他人の自己実現の触媒ではなく、才能という種火をもっているのだということを他ならぬ自分自身の為に証明したかったはずですし、実際いろいろなことに挑んでいらしたようです。

成功した元同僚に追いつくほどの選ばれた人間になれなければ、「自己」が「実現」したとはいえないのだとしたら、憲法21条「表現の自由」が誘う「自己実現」とは非常に酷な道だということになります。

なぜならそこに至るには、才能や幸運、そしてそもそもそれら幸運を受け入れるに自分はふさわしいと感じる高い自己価値観を備えていることが必須になるからです。

そうすると、自己実現のために憲法が用意した「表現の自由」とは、もしわたしたちがそれを望むならば、そこへの道は邪魔だてされないように開かれているという「状態」が第一義的に大切なのではないかと考えられます。

かならずしも皆が皆、勲章を胸につけている必要はないはずですし、勲章などつけていない人からの一言だけで誰かが救われるということもあるはずだからです。

あまりに大きな星の引力に自身の軌道を失った衛星のように、竜助さんはその旅を足早に終えられました。

多数のメディアにより大きくニュースで扱われていることは、竜助さんの残した軌跡が誰の胸にも一抹の影響を与えていることを示しています。

竜助さんの旅の終わりには、おそらく低かったであろうその自己評価を超えて、世間からたくさんの「表現の自由」による記事が手向けられています。

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2006/01/13

和田アキ子さんがプレーヤーから与えられたものと、評論家から与えられたもの

和田アキ子、脱ご意見番!?本業にハル(Yahoo)

「音楽評論家の富澤一誠氏は、近年のアッコを「楽曲に恵まれず、歌い方が古い」と指摘した上で、持ち歌がカバーされることについては、「話題性があり、キャラが強いから若者とのノリもいい。もともとアレンジしやすい曲も多い。キャラが立っているだけあり、いじりがいもあるでしょう」と分析する。」

著作権法の91条をご覧下さい。

第91条(録音権及び録画権)

「実演家は、その実演を録音し、又は録画する権利を専有する。」 

音楽を作詞・作曲した人が著作権・翻案権を擁するように、それを実演した歌手も様々な権利を擁します。

これを歌手の「著作隣接権」と呼びます。

自らの感性を問うためさまざまな訓練を受けて成果を得る歌手や製作者、放送事業者などの権利を保護するために、著作隣接権は91条で彼らの録音・録画権を、またその他の条文で放送権、貸与権、私的録音権、送信可能権などを保護しています。

ある楽曲を自分の感性で再編曲し直したいと思うとき、そのプレーヤーは作詞・作曲家が著作権の一支分権として擁する翻案権(アレンジに関する権利)を意識しなければならないことはもちろんです。

しかしその他にも、楽曲を実演した歌手には当然に敬意をもって十分意識しなければならないのだと、著作権法第四章、著作隣接権に林立する条文群は語っています。
 
ただしそれらの交渉は礼を欠かずに行えば、音楽という芸術品を愛するプレーヤー同士なら障害なく進むはずです。

一般リスナーに認知されているその歌手のジャンルやイメージを超えて、彼らの残した軌跡(レコード、CD等)そのものが尊敬に値するものだと後世のプレーヤーが感銘を受けたとき、製作する音楽こそ楽曲カバーやトリビュートアルバムであり、そのことはつまり交渉に入る前に高い次元の意識の交差があったことを意味するからです。

それは本記事内における、音楽評論家の残した表層的な物の見方の次元より、遙かに高い位置で行われるもので、あらゆる属性を捨象して音だけを見ることができる人だけが見つけられる、過去の楽曲、過去の歌唱の中に光る宝石のようなものです。

和田アキ子さんが本当のブルース(アフリカで狩られ、アメリカ南部で、強制的に奴隷労働に着かされた人達の鎮魂歌)を歌うとき、私も持っているロバート・ジョンソンら当時のプレーヤーが真に表現しよとしていたものと同じ輝きを聴くことができます。

またそれだからこそ、洋楽のルーツをよく知る現代のプレーヤーの耳にも届くに違い有りません。

それは本来、「ノリがよく」「キャラが立っているからいじりがいがある」などといった芸能界的な発想では届かない場所にある仕事のような気がします。

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2005/12/20

タレントの恋愛旅行と憲法の起点

押尾&矢田、ハワイ旅行 手をつないでラブラブムード全開(中日スポーツ)
「矢田といえば“お嫁さんにしたい女優ナンバーワン”。そんな美女との堂々のツーショットお披露目とあって、押尾は胸を張って勝ち誇ったようなスマイル全開だ。リポーターから「結婚指輪ですか」と聞かれると、「ちげぇよ」と乱暴な言葉づかいながら、言葉とは裏腹にかなりうれしそうな表情を浮かべた。」

憲法の24条をご覧下さい。

第24条〔家族生活における個人の尊厳と両性の平等〕

「婚姻は,両性の合意のみに基いて成立し,夫婦が同等の権利を有することを基本として,相互の協力により,維持されなければならない。

配偶者の選択,財産権,相続,住居の選定,離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては,法律は,個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して,制定されなければならない。」 

個人主義とは、世の中を個人一人一人を出発点に規定しようとする考え方のことです。

それは単一に定義しようとすれば誤解を生みやすい概念ですが、それはかつての集団主義による個人の疲弊の中から生まれてきた考え方です。

集団を単位に世の中を規定するためには上から順に定員数の少ないヒエラルキーを作成して階層で社会を統率する必要があります。

これが集団主義の具現化である、封建社会です。

わたしたちの国が戦争に負けて、それまで集団主義による規定が支配していた旧憲法は大幅に書き替えられ、現在の憲法は全体の前に個人を置く個人主義の色を濃く書き直されています。

そしてそのひとつの現れが国民の財産単位、責任を家単位で国家が管理した「家」制度の廃止でした。

憲法24条で人が「家」の事情から離れて自由に恋愛し、好きな者同士結婚できることを保障しているのも、明治憲法時代の「家」制度の解体を示しています。

それは国家と個人間の問題に限らず、職場と個人間であっても同じで、24条を私人間適用することにより、同じ職場のどのような男女が恋愛しようとも、業界、会社という集団の利益を優先的に規定して恋愛を不当に圧迫されることは現憲法下では原則否定されなければなりません。

かつて戦前の女優、岡田嘉子さんは結社の禁止など旧憲法下の全体主義の下、思想犯の前科があった演出家杉本良吉と思いを遂げるためには国を捨てなければなりませんでした。

戦後 60年、人気タレントさん同士が業界という全体の経済的思惑には一切興味を示さず、極おおらかに婚前旅行に出かけられるのも、新憲法が個人を出発点に書き上げられているからこそだといえます。



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2005/11/16

黒田清子さんのホワイトドレスとカリオストロの城

スポーツ紙から:紀宮さま ドレスはアニメがモデル?(毎日新聞)
「ルパンドレスとは、紀宮さまが結婚式で着用された純白のロングドレスのこと。報知は、このドレスのモデルが、宮崎駿監督の映画「ルパン三世 カリオストロの城」のヒロインではないかと伝えている。NHKに出演した学習院時代の級友が番組内で明かしたもので、映画のクライマックスで、純白の花嫁ドレスを身にまとったヒロインのクラリス姫がルパンと寄り添うシーンがあり、自らイラストに描かれるほどお気に入りだったらしい。今回のドレスは皇后さまの洋服を手掛けているデザイナーに依頼して新調した。すっきりシンプルなその形は確かにクラリス姫のドレスにそっくり。」

憲法の8条をご覧下さい。

第8条〔皇室の財産授受の制限〕

「皇室に財産を譲り渡し,又は皇室が,財産を譲り受け,若しくは賜与することは,国会の議決に基かなければならない。」 

映画「ルパン三世 - カリオストロの城」では、ルパンと次元、五右衛門が、捕らわれたクラリス姫救出に奔走します。

危うく思わぬ相手と結婚させられそうになっていたクラリスがルパンに救出されたとき着ていた純白の花嫁ドレスは、これまでもなにかと憧憬をもって語られることが多いアイコンです。

(記憶ではたしか北海道に移住した女優さんも結婚式でこれを着たはずです。)

黒田清子さんは以前から、アニメーションに造詣が深いというお話が漏れ伝わってきていましたので、あながち今回の衣装がクラリスのドレスを象っていたとしても不思議ではありません。

そしてもしそれが自分の趣味嗜好をまっすぐ出したものであるならば、見ている方としても解放された気分になるというものです。

黒田清子さんがまだ皇室に属していたとき、その私的行為の費用は内廷費から捻出されていました。

内廷費とは宮内庁の経理に属さないのもののことです。

皇室の人間が財産を贈与するには、憲法8条により国会の議決に基づかなければならないため、たとえ元紀宮が宮崎駿監督になんらかの報奨を与えようとしてもこれを自由になすことはできません。

そもそも憲法88条が、皇室財産をすべて国有財産にしているのですが、皇室といえども自分で自由にできる範囲の財産はあるわけです。

しかしそれを自由にすれば財を媒体に皇室と特定勢力が結びつき、国があらぬ方向に持って行かれる危険性があるため、憲法8条が皇室の財産権行使を国会の監視下においているのです。

そして黒田清子さんは、今や国会の監視の目も気にすることなく、思う存分自由に宮崎作品に接する事が可能になりました。

劇中最後、城から外に出してくれたルパンを見送るクラリスに対して、銭形警部は、「いや、奴はとんでもないものを盗んでいきました。あなたの心です」といういわゆる名セリフを残して映画は終わります。

黒田清子さんも、ここにいる人が自分を城の外に連れて行ってくれたのだと、クラリスの白いドレスで同好の士に言外に伝えていたのかもしれません。

 

 

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2005/10/12

和泉元彌さんのプロレスデビューと乾いた薪

和泉元彌がプロレスデビュー!芸能人3人目のファイターに(サンスポ)
「狂言師、和泉元彌(31)=写真上=が11月3日にプロレスデビューすることが11日、分かった。」

民法の709条をご覧下さい。

第709条〔不法行為の要件と効果〕

「故意又は過失に因りて他人の権利を侵害したる者は之に因りて生じたる損害を賠償する責に任ず」

和泉元彌さんはかつて、能楽に係る演能会等の事業を行う社団法人とその理事らの行ったマスコミに対する記者会見で「和泉元彌氏は宗家ではない」という発言をされ、名誉を毀損されたとして損害賠償等を求めています。

東京地裁はこれに対し「狂言方和泉流宗家は、実子であれば先代の死去に伴い当然に宗家を継承するとの慣行があるとは認められず,能楽及び狂言に係る各流儀の宗家の継承について,流儀内の総意を得ている例が多く,宗家会は,宗家継承については従来より流儀内の総意が原則であり,」

和泉元彌さんは「和泉流内の総意を得ておらず,かえって大多数から反対されているというのであるから,原告が宗家でないことは真実であるか,仮にそうであると断定できないとしても,上記のとおり認識していた被告らにおいて原告が宗家でないことが真実であると信じるについて相当の理由があったものというべきである。」と認定しています。

さらに公演のダブルブッキング,遅刻,早退、団体への誹謗中傷を繰り返したことを理由として,総会決議により退会命令処分としたことについて,その決議の無効確認と損害賠償請求を求めた点には、退会命令手続に瑕疵がなかったことを認定したうえで、

「原告が大幅に遅刻するなどして公演先との間で問題になったことは明らかであるところ,これらの点について本件委員会が調査し,原告を聴聞のため呼び出したにもかかわらず,原告は,これに応じなかったばかりか,被告Aを軽んじるような発言を繰り返し,被告Aを批判していたことが認められ」

「退会命令処分とすることを可とする決議をしたことは,被告Aにおいてその裁量権を濫用ないし逸脱したものとはいえない」ためそこにはどこにも不法行為がないとされ、和泉元彌さんの請求はいずれも棄却されています(平成 17年3月17日)。

不法行為は故意か過失で他人の利益を侵害した時、発生した損害を賠償する責任であり、債務不履行時の契約責任と並ぶ民事上の二大責任です。

一旦した約束は履行させるし、ルール違反で開けられた穴は、違反者自身にふさがせる手当が用意されていてこそ社会はその気圧を保てます。

そしてそれでこそトラブルがない場合の通常ルールも真価が発揮できるのです。

人間は各人の内部にあるリソースをもとに現実を再構築しているため、おなじ現実を前にしても実は見えているものは各人各様です。

間違いなく先代の実子であった和泉元彌さんとそのお母さんのリソースによれば、如何様な事態があろうとも自分が退会になるという結論はありえなかったに違い有りません。

しかし民法の大原則である私的自治の原則という蒸気機関に焼べる薪はカラカラに乾いた、つまり誰から見てもあきらかな材料でなければなりませんし、民事裁判は原告、被告のどちらのくべた薪が乾いたものなのかを一面判じるシステムです(私見)。

不法行為や債務不履行責任というフタの前に私感で濡れた薪をくべてもそれは機能しないのです。

その意味で皆が財産を殖やしていくゲームをくりひろげるこの世界では、より乾いた感覚で薪をさぐっていく覚悟が必要になります。

そしてそのことを通常、自立と呼びます。

法理メール?

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2005/09/18

ダンサーと舞台袖の上演権

近藤良平の「コンドルズ」ツアー(朝日新聞)
「振付家・ダンサーの近藤良平が主宰し、学生服の男性ばかり十数人が踊るカンパニー「コンドルズ」が、27日から4都市を巡るツアー「TOP OF THE WORLD」を始める。コントあり人形劇あり、もちろんダンスあり。快テンポで笑いの絶えない90分間のステージにするという。 」

著作権法の第22条をご覧下さい。

第22条(上演権及び演奏権)

「著作者は、その著作物を、公衆に直接見せ又は聞かせることを目的として上演し、又は演奏する権利を専有する。」

上演権とは、22条の文言によれば、公衆に直接見せ又は聞かせる目的で上演する著作者の権利ということになります。

これを演奏する権利と併せて、公演権と呼びます。

上演とは著作物を演ずることです(演奏行為は除かれます)。

かつてフランス人のバレエ振り付け師が振り付けた作品を、日本に呼ばれたロシアのキーロフバレエ団が無断で公演した際、著作権者の侵害回復の訴えに応じて東京地裁は「舞踊の著作物の上演については、実際に舞踊を演じたダンサーに限られず、当該上演を管理し、当該上演による営業上の利益を収受する者も、上演の主体である」と言い切って、海外パフォーマーの呼び屋等、収益を受ける物全体の責任も明言しました。

これを作品名にちなんで「アダージェット事件」と呼びます。

そこまで、上演という形で私たちをエンターテイメントしてくれる人達のアイディアは保護されています。

かつて勅使河原三郎という天才コリオグラファーは、整備される前の廃坑のような横浜、赤煉瓦倉庫にて、ガラスを足下で砕き割りながら、この世の物とは思えないような美しい舞踏を見せ、私はその映像の前に口がきけなくなるほどの衝撃を受けました。

エンターテイメントは単なる一時の慰めには収まらず、受容する側にパラダイムの転換を迫ることさえあるのです。

近藤良平さんというコリオグラファーの採るのは、観劇に来た人にコントや人形劇などまで提供して、とにかく楽しんで帰ってもらおうという方法論です。

エンターテイメントという行為は崇高なものからとくかくサービスに徹する物まで幅広くてよいわけですし、またそうあるべきなのです。

そして私たちはより優れたエンターテイメントに出会えることを願い、舞台袖にも著作権法22条をそっと立たせて、近藤さんという著作権者だけに彼の個性的な著作物の上演権を与えているのです。

法理メール? 

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2005/09/16

電車男とコマーシャルメディアの威迫

私の近くの「電車男」(読売新聞)
「オタクの純愛を描く「電車男」(フジテレビ系)が好評。このドラマで気になるのが、主役の「エルメス」(伊東美咲)に恋する「電車男」(伊藤淳史)をはじめとするアキバ系。」

特定商取法の6条3項をご覧下さい。

特定商取引に関する法律

第6条(禁止行為)

「3 販売業者又は役務提供事業者は、訪問販売に係る売買契約若しくは役務提供契約を締結させ、又は訪問販売に係る売買契約若しくは役務提供契約の申込みの撤回若しくは解除を妨げるため、人を威迫して困惑させてはならない。」

自己イメージとは元来、自分の周辺の個人的関係を持っている人々から得られるものでした。

それは今思えば非常に健全な自尊心の構築方法だったといえます。

TVが発明されると、私たちは無料で楽しい番組を見るために、スポンサーのCMを見るハメになりました。

そればかりかTV番組の内容自体、スポンサーのご機嫌がよりよくなるよう、勢い製品のイメージアップを図るという意図には逆らえなくなっていきます。

そしてその光る箱はあまりにも圧倒的に面白かったため、私たちは仕事から疲れて帰ると緊張を解くために競うようにそのメッセージを自分から受け取ります。

そしてCMや番組がより私たちの耳目を引くためには、そこに出てくる人達が美しく、人生の勝利者でなければなりません。

ウィルソン・ブライアン・キーは「メディア・レイプ」という本のなかでそうした人達を「ビューティフル・ピープル」と呼んでいます。

そして八頭身の異常に美しい男女や、社会的成功者などのビューティフル・ピープルは、一般人に日々劣等感を埋め込むという効果をもたらします。

私たちは彼らの向こう側に私たちが未だ見たことのない金銭的余裕や人脈や約束された未来を透視し、その番組のスポンサーであるヘアケア用品やお酒や口紅さえ購入すれば、私にもその切符の端くれが与えられるに違いないという枯渇感を植え付けられます。

私たちは今日も一日、なんとか大きな災難にあわないよう祈るように課された仕事をこなして帰宅しますが、ビューティフルピープルはそういった心配の一切ない世界に住んでいるように見えるのです。

そしてその上、私たちは彼らを眺め続けさせられるうち、自分以外の全ての人達が、なんだか安定した成功を入手しはじめているような錯覚に陥り始めます。

その植え付けられた気分を更になぐさめるために、TV番組のスポンサーの商品を買うという仕掛けられた堂々巡りは、20世紀が建築した資本主義最大のモスクだとさえ言えます。

そしてその効果として、切符(商品)を買っただけで、すっかり安心してしまい自分の時間を創造する行為をやめてしまうのです。

「電車男」は、ビューティフル・ピープルとは真逆で不器用な人達が主役になっており、そこだけ見ればTV局はコマーシャルメディアとして視聴者を商品購買行動に走らせる威迫を放棄したかのように見える珍しいドラマです。

しかし彼らを際だたせるために目も覚めるような美男美女の家族が対照的に描かれており、ビューティフルピープルの効果は私たちの意識の底に逆説的に浸透することになります。

私たちはいつも一度ヘコまされた上で、改めて挙手をさせられているといえるのです。

さて、特定商取引に関する法律の6条3項は販売業者が契約させるために人を威迫して困惑させる行為を禁じており、これに反すれば70条により、2年以下の懲役又は300万円以下の罰金が科せられます。

もちろんテレビ番組が直接特定商取引に関する法律の構成要件に該当するはずもありません。

しかし、特定商取法という法律は、消費者という存在がいつも精神を操作されて「自分が決定したのだ」と思いこみフラフラと不要な商品を購入してしまう危険性をもっているのだという点を憂慮したものです。

その立法趣旨から鑑みれば、TVのスイッチを入れることで私たちはTVのスポンサーをリビングに自ら訪問させ、「実在しない完全なビューティフル・ピープル」というイメージによる威迫を24時間受けているのだと言い換えることも可能です。

少なくともそういうことを少し意識しておくのは、法学を超えて精神医学上に大切な意味を見いだすことがきます。

多くの神経症が、TVのスイッチを切ることで自然治癒していく可能性が十分にあるからです。

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2005/09/01

子供という二度とない季節

「毎日かあさん」論争、表現の自由か教育的配慮か(Yahoo)
「文化庁メディア芸術祭賞を受賞した漫画「毎日かあさん」を巡り、作者の漫画家西原(さいばら)理恵子さん(40)と東京・武蔵野市の間で論争が起きている。西原さんの長男(8)が通う同市立小学校が、西原さんに「学校を作品の舞台にしないでほしい」と申し入れたためだ。問題となったのは、授業参観の場面。主人公の母親が、落ち着きのないわが子を含む児童5人を「クラスの五大バカ」と表現し、ユーモアを交えつつ、子どもの成長を見守る内容だ。」

民法の710条をご覧下さい。

第710条〔非財産的損害の賠償〕

「他人の身体,自由又は名誉を害したる場合と財産権を害したる場合とを問はず前条の規定に依りて損害賠償の責に任ずる者は財産以外の損害に対しても其賠償を為すことを要す」 

本騒動における対立利益の一方は、もちろん表現の自由です。

憲法21条が「一切の表現の自由」を保障していることは、あなたやわたしがどんな形で口を動かそうが誰にも止められない、という意味ではありません。

より本質的には思想・良心の自由を実効化させんがための表現の自由の確保であり、それはこの国を民主制、つまりみんなの意見をできるだけ反映させて動かしていくため、国家にとって都合が悪いからと言う理由で口を閉じろとはいわせない、戦後の日本はそういう居心地の悪い場所にはしないという宣言です(私見)。

対してもう一方の対立利益は大まかにいって学童やその親の名誉という人格権だといえそうです。

人格権とは名誉や信用などの人が社会生活上保有していると思われる利益のことで、民法710条がこれらを違法に侵害すれば不法行為となると定めています。

実は表現の自由は、あらゆる自由の基礎を保障するシステムとしてその重大な意義からこれまで人格権などを理由にブレーキがかけられたことはありませんでした。

はじめてそれが行われたのが、約3年前の「石に泳ぐ魚訴訟」事件最高裁判決においてです。

小説「石に泳ぐ魚」は、作家柳美里さんがその友人の容姿や経歴など同定可能な内容で表現したもので、友人はショックで大学院をやめてしまいました。

一方柳さんが主張したのも「これは純文学作品である」という、今回の「毎日かあさん」の「フィクションである」と同じラインでした。

最高裁は平成14年、この争いの決着をつけるべく「人格的価値を侵害されたら、人格権を根拠に現行侵害行為を排除し、差止めを求めることができる」とまで言い切りました。

そして重大な権利である表現の自由をそのように後退させるための判断基準として、(1) 侵害行為が明らかに予想され、(2) その侵害行為によって被害者が重大な損失を受けるおそれがあり、(3) その回復を事後に図るのが不可能ないし著しく困難になると認められるとき表現の自由の差止めまで要求できるのだと要件を立てています。

今回学校側が「毎日かあさん」に変更を求めているのは、「学校を舞台にしないで欲しい」というものです。

もしわたしが作家側であれば、ユーモアたっぷりに描いていた手はその時点で硬直化し、「人の内面活動を外部から操作しようとするとは何事だ」とそれまで思っても見なかった防衛本能が頭をもたげるかもしれません。

その感情には直感的に「表現の自由」というキャップが被されることでしょう。

それが「石に泳ぐ魚」事件の発端であったし、「毎日かあさん」の騒動のはじまりのかたちだったと想像できます。

ただし「石に泳ぐ魚」の場合、最高裁はその本からゆっくり表現の自由のキャップをはずしました。

表現の自由という巨石の前に、世界が全く信じられなくなって血の気を失っていた無力なモデルの女性がいたからです。

西原さんの作品の底流は、その絵に反して非常に文学的な場合があります。

そして文学では、いかに対象を間が抜けているように表現していようとも、最後のページを閉じてみれば、実は全体で深い愛情表現をしていたということがあります。

小学校という親が細心の注意を払う場所ではそういった変化球が暴投ととられてしまう部分もあるのでしょう。

一つだけ確かなことはどちら側の子供にとっても、子供という季節は二度とやり直しが効かないという点です。

大人の面子の付け方にはそれぞれ形があるはずなので、騒動の着地点はそれぞれの子供の横顔を見ながら定めるべきですし、その季節は主義主張を超えて価値を見るべきものです。

 

 

法理メール?  * 発行人によるメールマガジンです。

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2005/08/27

覚醒剤が好きな監督と製作委員会という象

キョンキョン主演映画の豊田監督、覚せい剤で逮捕(goo)
「歌手で女優、小泉今日子(39)の主演映画「空中庭園」(10月公開)の監督、豊田利晃容疑者(36)が25日までに警視庁犯罪対策5課などに覚せい剤取締法違反(所持)の現行犯で逮捕された。」

民法の674条をご覧下さい。

第674条〔損益分配の割合〕

「当事者が損益分配の割合を定めざりしときは其割合は各組合員の出資の価額に応じて之を定む」

映画「空中庭園」は”空中庭園製作委員会”によってプロデュースされています。

製作委員会とは、映画製作という大変リスキーな投資行為に対して活用されているリスクマネジメントシステムで、それは民法では任意組合に分類されます。

ここで組合とは「お互いが出資し合って共同の事業を営むことを約束する契約」のことです。

任意とは、労働組合・協同組合・共済組合・公共組合など特別法上で定められた組合ではない組合という意味で、よって法人格は与えられません。

ヒットした映画を巡っては、原作本の出版社、放映予定・海外輸出するテレビ局、キャラクター商品を作る玩具メーカー、映画の中でたびたび登場する飲料水メーカー、自動車メーカーなどなどが様々な利益回収方法を独自に持っています。

そこで企画者はそれら利を得そうな出資者を回り、GOサインが出ればそこで各々の出向社員により任意の組合、製作委員会ができあがりです。

作品の著作権は出資率に応じて共同保有されますが、すべてのメーカーが権利に則って各自の方法で得た収益は一旦組合に戻され、民法674条に従い、分配された著作権の比率で出資者であるメーカーに還元されます。

映画の製作委員会とは、なにもロシア映画やフランスの小品が大好きな、善意の映画マニア集団などではなく、リスクとリターンの計算を研ぎ澄ました収穫のプロの集団です。

一作品限りの契約による集団ですので、映画製作会社とことなり集団そのものを存続させるための論理が不要になり、自由度が高くなります。

映画への出資とはそこまで慎重なシステムを組まなければ、とても粋人が一人で追い切れるような規模でも安全な投資でもありません。

映画監督というお仕事は、映画の「投資して、収穫する」という経済活動面から再考察してみれば、非常に緩やかな責任しかないポストです。

任意団体によって集められた巨額の資金は、プロデューサーの意向を受けながらも、ひとえに彼の内面活動にそのヒットの本質を一任され、たとえ映画がコケたとしても、彼は一切の金銭による賠償など求められません。

それだけに彼には、いままでにない革新的な感性か、数字の見込める安定した職人芸などが求められますが、たとえそれが完全なギャンブルだとしても、最低限出資者にその負けを認めさせるには、公開するところまではもっていく責任感も求められます。

映画「空中庭園」も「空中庭園」製作委員会によって製作されています。

公開の情勢は微妙であり、公開延期による機会損失、つまり出資者に与えるお金の損害は相当額にのぼるでしょう。

映画監督は巨額の出資金を任された、選ばれし象使いです。

象が芸をして投げ銭を集める前に、谷底に落としてしまうような無責任な象使いがいれば、誰も象を貸さなくなるのは言うまでもありません。
 

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2005/08/26

ダンスフロアに涅槃の調べが響く

エイベックス子会社、O-ZONEの「恋のマイアヒ」着うたダウンロード数が100万件を突破(日経新聞)

「東欧モルドバ共和国出身の3人組O-ZONEは、2002年にルーマニアで音楽活動を開始。2003年に発表した「DRAGOSTEA DIN TEI(恋のマイアヒ)」(アルバム「DISCO ZONE」収録)がスペインで注目されたことをきっかけに、ヨーロッパ全土で大ブレイクし、シングル・アルバムを合わせてヨーロッパ中で400万枚をこえるセールスを記録。」

憲法の第19条をご覧下さい。

第19条〔思想および良心の自由〕

「思想及び良心の自由は,これを侵してはならない。」

古代インドでは神と会話するバラモン、王などのクシャトリア、庶民のバイシャ、そして人以下であるシュードラという四つの階級が定められ、これは子孫代々永遠に変わることがないと信じられていました。

インドの小国、コーサラの王子シッダールタは、人の老病死の苦しみにとりつかれ、29才の時に妻子を残して修行僧となりました。

ただ悟りをバラモンにしか許さない聖典、ベーダの教えにはなじめず、6年の間独自に断食など自分に厳しい修行を課してきましたが、いっこうに苦しみを解消する答えは得られませんでした。

そんなときふと道行く村人達が口ずさむ歌の歌詞が耳にとまりました。

「琴の弦は締めすぎても、緩めすぎても良い音がでない・・・」

ハタと何かを気づいたシッダールタは、大きな菩提樹の下に座ると厳しいだけのそれまでの修練とはちがって、静けさに身を置いて自分の中に悟りを求めはじめました。

そして何日目かの朝、シッダールタは全ての苦しみを生む”執着する心”から自由になる方法を悟りましたが、これが仏教の開祖、ブッダの誕生だといわれます。

心のかたちの自由を特に明言しているわたしたちの憲法19条は、実は諸外国にはないとても珍しい条文です。

外国にないものを私たちの国に用意しなければならなかったのは、戦争に負けるまでの私たちの国では、治安維持法などにより国家警察が内心にどんどん踏み込んできて、心が自由な形であることさえもゆるされなかった歴史があったことが原因です。

それ以後60年、憲法19条によりわたしたちは物を考えることだけはどんなものでも自由にすることを保障されてきました。

O-Zoneがルーマニア語で歌う「Dragostea Din Tei(恋のマイアヒ)」を和訳すると「菩提樹の木の下で(恋人を想う)なのだとか」。

菩提樹は一般に、ブッダが厳しさだけを求めてきた古い聖典や、自分自身の古い観念からより自由になり、心を解放して最終回答を得た場所を象徴しています。

(菩提とはそもそも悟り、涅槃を意味します。)

神との会話方法が国家神道であろうと、リグ・ベーダであろうと、それを強制することで幸福が得られないのは、紀元前五世紀のインドであっても、21世紀の日本であっても同じであることを表現するように、祝福のメロディが今日もダンスフロアに流れています。

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2005/08/25

哲学:得んとする態度の継続

朋ちゃん共演相手に仰天告白「愛してる」(Yahoo)
「華原朋美(31)のミュージカル初挑戦作品「赤毛のアン」の東京公演が24日、東京・中野の「なかのZEROホール」で開幕した。体全体を使っての熱演で心身ともにホットな朋ちゃんは、会見で相手役の舞台俳優・泉見洋平(33)に「すごく愛してるんだよ!」と仰天告白。泉見も「華原さんは素晴らしい」と応え、物語同様の恋に発展するか注目だ。」

刑法の39条第1項をご覧下さい。

第39条(心神喪失及び心神耗弱)

「心神喪失者の行為は,罰しない。」

より確かな自分、知恵、思考体系を探し求め、姿を追い求める道のことを、古代ギリシアではfilosofivaと呼びました。

それは哲学の語源であり、解体すれば永遠に続く知への求愛という意味です(私的解釈)。

あなたやわたしがそれぞれの内側に独自の知をつかんでいなければ考えない葦、すなわち内側からの確信を張り出すことができない葦として、それが事切れるまで風に凪ぐしかなくなります。

しかしわたしたちは未だその究極の答えをつかんでいませんし、正解は時代の空気とともにいつも流動的です。

法律をどのような形にするかは、常に哲学の一大命題でしたが、そのもっとも拮抗した法哲学上の争いは、刑法における古典学派と近代学派のの争いに見ることが出来ます。

極端にいえば前者は人間の自由意思を信仰し、後者は狭義の社会科学を信仰しますが、いずれもわたしたち葦に確信をもたせんとする学術闘争であり、風に凪ぐことのない社会をつくろうとする誠実な折衝です。

しかしいずれかの説を極端にとることにより、心神喪失者によって「行為」が現象としてあったとき、わたしたちはそれを罰するべきなのか、罰せざるべきなのか結論が分かれてしまいます。

論争は克服されなければならず、そのアイディアのひとつとしてウェルツェルが用意したのが目的的行為論であり、刑法における”行為”の意味を、目的をもったものに限定し、極論から距離をとることに成功しています。

現在では39条1項の”行為”が罰せられないのは人格の主体的現実化としての身体の動静がないからだと解釈する人格的行為論が通説的ではあります。

華原朋美さんが心の深い傷から立ち直り、魅力的な新しいパートナーを求めることも、彼女を彼女たらしめんとする重要な精神活動の一環です。

そして彼女が衆目の前で堂々と求愛したように、”得る事”よりも”得んとする態度を継続すること”にこそ真の価値があることは、恋愛にあっても、法哲学という「知への求愛」にあっても同じです。

恋の一番の楽しみが相手の笑顔を自分がたくさん作ることであるように、たとえあなたやわたしが確信らしき法哲学を得る日がきたとしても、常に社会の顔をのぞき込みながら検証しつづける態度こそ、わたしたちを考える葦でありつづけさせてくれるはずです。
 

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2005/08/24

ブログで暴言を吐いた店員と国家のアニメ政策

「オタ」「きもい」──スタッフのブログ発言、企業を巻き込む騒動に(itmedia)
「発端は8月12~14日に東京で開かれた「コミックマーケット」(コミケ)。会場に出店した同社フランチャイズ企業のアルバイトスタッフが、実名で運営していたブログに「みんな頑張ってバイトしています!まぁお客はみんなオタ」「大量オタ。これがぶぁぁぁぁあっているの。恐い!きもい!」などと写真付きで記事を掲載した。」

コンテンツ促進法の第2条をご覧下さい。

コンテンツの創造・保護及び活用の促進に関する法律

第二条(定義)

「この法律において「コンテンツ」とは、映画、音楽、演劇、文芸、写真、漫画、アニメーション、コンピュータゲームその他の文字、図形、色彩、音声、動作若しくは映像若しくはこれらを組み合わせたもの又はこれらに係る情報を電子計算機を介して提供するためのプログラムであって、人間の創造的活動により生み出されるもののうち、教養又は娯楽の範囲に属するものをいう。」

おそらく女性店員さんは、思ったままをブログに書いてしまったのでしょう。

しかし思ったままを口にして許されるのは小学生までという常識は、彼女を使って収益を得る会社によって、まず周知されていなければなりません。

かつてロンドンのキングスロード駅から歩いて30分かかる果てに「SEX」という小さなブティックができ、そこを経営していたカップルが出入りしていた客の若者をプロモートしてロック界のスーパースターに変えました。

やがて「SEX」は「WorldsEnd」となり、床の傾いたその小さなお店は後のイギリスの一大ファッション産業を支えるブランドの発祥地になりました。

そうした当時のイギリス文化や空気を知らない多くの女性達も、ビビアン・ウエストウッドやマルコム・マクラーレンや、後のディオールを任されることになったジョン・ガリアーノを生んだ文化的空気は興味を持たないままステータスを上げてくれると信じて高価なバッグを先を競って買い求めます。

たとえファッションの文化としての決定的重要要素といえる音楽を知らなかったとしても、産業としてのファッションは十分流通しますし、それぞれの現場にはそれぞれ独自な成立の仕方があります。

それでも尚、もし特定の現場を”きもい””ちゃらい”と言い切ってもよい人が実在するとすれば、彼や彼女には、非現実的な程の量の知識とセンスが要求されるはずです。

この世の中は一朝一夕には理解できない構造で動いています。

たとえばその狂気は一般に理解されていなくても、村上隆のアニメをモチーフにした作品群がブランド物のバッグや六本木ヒルズに張り付いていることにも、文化として戦略的二重構造があることを見る人と見ない人があります。

こと自分のよく知らない文化に対して批判したくなった時には、いろいろふまえて口を閉じておく忍耐が肝要です。

無難な文化ばかりをチョイスしてきた目からは見えなかったかもしれませんが、女性が見下したアニメファンという現場でさえ、経済産業省がコンテンツ促進法を平成16年に新設し、対世界戦略の大きな稼ぎ手として最重要視しているという、国家プロジェクトとしての二重構造を備えているのですから。
 

 
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2005/07/30

徒弟の幸福は徒弟だけが知る

巨人 涙の弔辞「天国でも弟子」
「26日に死去した元吉本新喜劇の岡八朗さん(本名市岡輝夫=いちおか・てるお=享年67)の葬儀・告別式が28日、兵庫県尼崎市で営まれた。弟子で漫才師のオール巨人(53)は「天国でも弟子として尽くさせてください…」と涙、涙の弔辞。“奥目の八ちゃん”は、亡き妻と長男の待つ次の“舞台”へと旅立った。」

労働基準法の69条をご覧下さい。

第69条(徒弟の弊害排除)

「使用者は、徒弟、見習、養成工その他名称の如何を問わず、技能の習得を目的とする者であることを理由として、労働者を酷使してはならない。
②使用者は、技能の習得を目的とする労働者を家事その他技能の習得に関係のない作業に従事させてはならない。」

労働基準法69条は戦前の徒弟の弊害を排除するために定められたものです。

徒弟とは師匠として師事する人の下に弟子入りし、業務とは直接関わりのない師匠の身の回りの世話などしながら師匠の全てを観察し、徐々に師匠が身につけている業務に関する仕事やその勘所、目の付け方を弟子が学んでいくものです(私的定義)。

それはなんのとっかかりももたない一人の若者にとって、本質的には幸福な制度ではありますが、一面いったんそれを師匠の側がシステムとして悪用しはじめれば尽くすだけ尽くした弟子のもとにはなにも残らなかったという事態にも陥りかねません。

そこで戦後の新憲法18条にいう「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない」の精神を継受した労働基準法が、師匠の取り方次第で幸福にも不幸にもなってしまう徒弟制度というものの存在を、基本的には否定しています。

しかし労働基準法69条の存在にもかかわらず徒弟というこのシステムは教授と学生、起業家と鞄持ち、果てはクラブDJとその弟子などにいまだ脈々と残されています。

弟子が労働基準法の保護の外で生きることを覚悟するなら、徒弟という一見非常に不合理な制度はあらゆる芸に換価できない土台をつけます。

「完全にオリジナルな表現」などというものがいつの時代も幻想で敷かない以上、どのような分野でも自己流という翼ではすぐに波間に沈んでしまいます。

私のように関西で育った子供なら誰でも知ってるあたたかい天才芸人、岡八郎さんはお亡くなりになりました。

しかし彼の下で徒弟に入るというカタパルトは、オール阪神・巨人さんという芸人をより高く、より遠くまでとばす推進力を蓄積させることに成功しています。

そしてそれこそが徒弟制度の本望なのです。
 

 
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2005/07/25

夢の国で飛んだ罵声と選択の二叉路

JR舞浜駅、TDL帰りの客で深夜まで混乱(朝日新聞)

「「いつまで動かないんだ」「ちゃんと説明しろ」。人であふれかえった舞浜駅では怒声が飛び交い、バス停には長蛇の列ができた。携帯電話の電池が切れた人たちが公衆電話の前に長い列を作り、運転再開を待ちくたびれた客同士が怒鳴りあう姿もあった。 」

夢の国、ディズニーランドにおけるいわば憲法前文、ウォルト・ディズニーのディズニーランド開園式(1955年 7月 17日)式辞をご覧下さい。

Walt Disney's Dedication of Disneyland July 17, 1955

WELCOME TO DISNEYLAND MAGIC.

「To all who come to this happy place: Welcome. Disneyland is your land. Here age relives fond memories of the past... and here youth may savor the challenge and promise of the future. Disneyland is dedicated to the ideals, the dreams, and the hard facts that have created America... with the hope that it will be a source of joy and inspiration to all the world. 」

(私訳)

ようこそ、ディズニーランドの魔法に。

「この幸せの地に集うすべての人へ: ようこそ。ディズニーランドは過ぎし日々の記憶を取り戻さんとする大人や、来たりし日への挑戦と確信を持たんとする若者のための場所です。ディズニーランドはアメリカを築き上げた、理想や夢、そして困難だった全ての出来事に捧げられています。そのことが世界中の人の喜びやインスピレーションの源になることを願って。」

ディズニーランドでは働く人がキャスト、お客さんがゲストと呼ばれるのだそうです。

そこでは清掃担当者といえども、ディズニーランドという夢を支えるキャラクターの一人であり、舞浜の清潔なアスファルトに包まれた園内全てを貫く世界観の維持には一分の隙もないかのようです。

そしてそのことが、そこを訪れた現実に疲れた大人の、とくに女性達の疲れを癒し、「いつまでも少女時代の世界観を持ち続けてもいいんだよ」と丸一日かけて話しかけてくれるのでしょう(多分)。

ウォルト・ディズニーも開園式で述べたように、アメリカという何もなかった荒野に約200年間でウォール街やブロードウェイを作りあげるまでには凄まじい困難が続きました。

開墾するためイギリスから渡ってきた開拓民の家族に要求されたのは、困難に泣き叫ぶリアクション(反応)ではなく、いつまでも掘り返すことのできない切り株を前にしても、理想や希望の像を語り合うことをやめないクリエイション(創造)でした。

夢の国で支払った金額分の満足をお腹一杯にした家族連れは舞浜で何時間も座り込むハメになり、さぞつらかったことでしょう。

しかしその駅舎の中にたくさんいたはずの夏休みの子供達のために、反応と創造の二叉路の手前で大人にだけは選択肢が与えられていたのです。

感情と自分を分離して、子供達に何を見せるべきかを「考える」という選択肢です。
 

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2005/07/16

文学と世界の再解釈のための体

ハリポタ最新刊:発売前に「流出」ネット書店が少数冊配達(毎日新聞)

「最新刊をめぐっては、発売前から世界のファンが過熱。英国では倉庫に保管中の新刊が盗まれる騒ぎがあったほか、カナダの一部書店でも先週、少部数が発売されているのが分かり、地元裁判所が購入者にあらすじの公開禁止を命令したという。」

著作権法の27条をご覧下さい。

第27条(翻訳権、翻案権等) 

「著作者は、その著作物を翻訳し、編曲し、若しくは変形し、又は脚色し、映画化し、その他翻案する権利を専有する。」 

翻訳することや、脚色、または映画化することは、著作権の支分権として法の下に保護されています。

これを翻案権と呼び、物語のあらすじをまとめることもこの翻案権に所属しています。

したがって作者以外の人が勝手に物語のあらすじを公表してしまえば、日本国内では著作権法27条に抵触する疑いが極めて濃くなります。

すばらしいお話は、たとえあらすじだけ聞いても著者固有のアイディアに基づく感動を憶えることが可能だからです。

本を書くという作業をただ外形的に眺めれば、英語の場合26文字のアルファベットをただただ羅列して組み合わせているだけです。

しかし一旦、その組み合わせ方が世界中から熱狂的に受け入れられれば、ハリーポッターのような連作は、その新しい羅列の組み合わせを世界中で待ちわびている事態になります。

私たちが誰かの書いた書物を読んだり、誰かの作った音楽を聴いたり、また誰かの監督した映画を見たりしているときには、いつも自分なりの方法だけに頼って解釈して暮らしている世界というものを、著作者による斬新な解体・構成方法で再体験しています。

そしてそのことで自分が平均80年という時間限定で居留しているこの世界の意義を再発見し、更に世界を解釈する人間という機構そのものの意義を唐突に了解して涙したりしています。

著作権や、その支分権である翻案権に守られた、著作者に対して与えられる正当な報酬は、本質的には、著者が「世界という糸」をオリジナルな織り方で編み上げた反物に対して支払われる、私たち同族(人間)からの敬意であるといえます。

そしてその反物は著作者が世界からいなくなった後も、人と世界の関係をずっと暗示しつづけるように著作者の抜け殻のかたちを保ちつづけます。

確率論という学問によれば、チンパンジーにタイプライターを与えて偶然打ち出される文字の羅列が、シェークスピアの書いた戯曲と全く同じものになる可能性は決して、ゼロではないのだとか。

それが数学である以上、きっとそうなのかもしれません。

しかし私はいつまで待ってもその具体的実現はないのだと考えます。

なぜならば著作物を通して私たちが知りたいのは、「世界とは、つまり自分自身のことに他ならないのだ」ということであり、それを人間に知らせるための作品を編むには、やはり人間の体を通して世界の再解釈を行う必要があるはずだからです。
 

 
法理メール?

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