2008/04/28

被害をあげつらう時は過ぎ、責任を知る時がきたと法が言う

【歌織被告に懲役15年】白一色に身を包み 刑宣告にも表情変えず(iza!)

「公判を通じて、歌織被告は、祐輔さんの有形無形の暴力を時には涙を交え、時には怒りに声を震わせながら供述。その一方、毎回九州から上京しては、傍聴席の最前列で祐輔さんの遺影とともに公判を見続けた遺族への謝罪の言葉はなく、この日も目を合わせることもなかった。」

刑法の39条をご覧下さい。

「第39条(心神喪失及び心神耗弱)

1 心神喪失者の行為は、罰しない。
2 心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。」  

(以下参照:刑法判例百選1総論(第6版) 別冊ジュリスト189

昭和6年12月3日、大審院はその判決で心神喪失を「精神の障碍に因り事物の理非善悪を弁識するの能力なく又は此の弁識に従て行動する能力なき状態」であると定義しています。

また同じく心神耗弱とは「精神の障碍未た上叙の能力を欠如する程度に達せさるも其の能力著しく減退せる状態」であるとも定義しています。

これが法廷における39条の意味づけです。

法学説上も、心神喪失は精神の障害に基づき自らの行為の違法性を認識する能力あるいはその認識に従って犯行を思いとどまる能力がない場合、心神耗弱はそうした能力が著しく減少している人だとしています。

裁判所も法学説も、認識・制御能力の障害が「精神の障害」に基づいたものであることを要求しているのは、認識・制御能力の有無・程度だけで判断したのでは心神喪失・心神耗弱の範囲が無限定になるし、その判断が不安定になるからです。

札幌地裁の昭和47年7月11日判例も、「正常人が……自我ないし人格の統制機能を失って,短絡的に衝動行為に出たとしても」「全面的に人格的統制機能の欠如した状態で行われた短絡的衝動行為であるとしても」心神喪失・心神耗弱にはならないのだといっています。

ただし責任能力制度は、わたしたちの社会が使う刑法の根幹である責任主義を体現しているものです。

責任という意識の橋を自ら渡ったかどうかわからないのに、いたずらに39条適用要件を厳しくしてしまうのでは責任主義はただの建前に貶められます。

それゆえ、これまでの判例では精神の障害の種類ごとに、おおむね責任能力の判断基準が確立されてきました。

ところでいかに司法の世界では精鋭であるはずの裁判官でも、精神医学については普通素人です。

つまり医療のプロが下した診断名を全否定することは、たとえ場所が法廷でももはやできません。

司法のシステムを内部破綻させないためにも、裁判官はこの限りでお医者さんの下した診断名の影響を受けます。

しかし責任能力の判断は,刑罰を科すか、またどの程度に科すかというあくまで法という世界観が下す判断です。

よってその判断はお医者さんの下した診断名とは位相を違えた、裁判官の見る世界によるものになります。

最高裁も昭和58年9月13日決定で「〔法律判断の〕前提となる生物学的,心理学的要素についても,右法律判断との関係で究極的には裁判所の評価に委ねられるべき問題である」と判示しています。

司法という道具は、神の裸をひもとく科学とは、異なる動機で編まれ続けているのです。(私見)

今回の判決でも、裁判官は医療の判断を全肯定しながらも、39条という非常出口の扉を開くことを拒んでいます。

歌織被告にはその証言通りであれば、心身ともに非常につらい生活が続いていたことでしょう。

しかしながら、医学と逆の結論をあえて読み上げる裁判官が背負ったものが”責任”ならば、犯行時の歌織被告にあったとされたものもまた、”責任”と呼ばれるものなのです。

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2008/01/13

うつ:感情のバッファオーバーフロー

長男転落死の西村議員が手記公表(原文のまま)(iza)
「救急隊の必死の救命活動そして慶応病院の救命活動の後に、12時07分死亡が確認されて後私どもは、この突然の悲しみの中でなぜ、林太郎の転落を止められなかったのかと深く自責の念にかられながら今、林太郎は、ウツの苦しみから解放され、神に召されたのだと慰め合っています。」

精神保健福祉法の22条の3をごらんください。

精神保健及び精神障害者福祉に関する法律

第22条の3(任意入院)

「精神科病院の管理者は、精神障害者を入院させる場合においては、本人の同意に基づいて入院が行われるように努めなければならない。」

わたしたちが己が心に不安や怒り、また悲しみを抱えるのは、その生命を維持するために原始共同体から積み上げてきたオートプログラムです。

互いに言葉ももたなかった時代、それらの感情はあらゆる生命の危機からわが身をもっとも高確率で守ろうとしたときに機能させるものでした。

しかしもしわたしやあなたの中で、いったんこうした負の感情群が一斉に起動してしまうと、わたしたちはその本来の意志とは別のやりきれない感情のぬかるみを長く歩いていくことになります。

これがうつと呼ばれる状態です。

そして負の感情が一斉に起動してしまうことの契機は、精神に容易を長期にわたり蓄積しやすくなっている高度競争社会の仕組みそのものだといいます。

さらに苦しみという感情の機能として、自らの疲労の実感を過小評価させて一つの仕事に専念させようとするため、役割が高度に分科した現代社会では、わたしたちは自らの疲労の蓄積に気づきづらくなってしまっています。

よってもし身の回りの愛する人の様子が変だと感じたときは、まさに西村議員のご家族がとられたように、敏感に本人の行動に気を配ってあげることが非常に重要なのだといえます。

なぜならばいったんうつと呼ばれる状況が発動すると、本人の生きようとする本能とは別に、一斉に襲いかかる負の感情群が彼を衝動的に死に向かわせてしまうことがあるからです。(以上参照:人はどうして死にたがるのか 下園壮太 文芸社

一方で精神障害の治療には、本人の罹患したという自覚とそれは治療が必要な状況であるという納得があったほうが望ましいのはいうまでもありません。

実際精神保健福祉法、その22条の3も、精神科病院の管理者が精神障害者を入院させる場合には、精神障害者本人の同意に基づいて入院が行われるよう努めるべき旨の努力義務を定めています。

人権尊重という法律面からの検討以外にも、治療的観点からも、こと精神治療に関しては、本人の意思による任意入院という手続き自体が、退院後の治療や再発時にも好ましい影響を与えるものと考えられているからです。

精神の病のひとつであるうつも、本人に自覚することの難しい、”負の感情の一斉暴走”という現象であるならば、その病で不覚にも自ら命を断ってしまった方々の数々の無念は、わたしたちに新しい次元の警鐘をもたらしてくれています。

新しい態度でその病を見つめれば、うつを本人の弱い心の属性だと決め付けてしまうには、あまりにもありふれた場所でわたしたち自身を待っていることに気がつくからです。

 

西村議員のご長男、林太郎氏には、やすらかなご冥福を心からお祈りします。

 

 

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2007/05/17

ひしめく境界と署名殺人

生首少年? ネット告白の内容とは…動機&後悔(zakzak)
「福島県会津若松市の母親惨殺事件で、逮捕された少年(17)が犯行直後に書いた可能性のある「日記」がネット上に存在したことが17日、分かった。日記の書き込みは事件が表面化する前で、一問一答形式で記入されており、犯行の動機を「ただなんとなく」「あえて挙げるなら自己表現ですね」など、“秘密の暴露”を暗示させるような記述が多数あった。」

刑法の199条をご覧下さい。

第199条(殺人)

「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する。」

子供が親から自信の核を植え付けられていないか、見捨てられたように感じていた場合、社会的なグループに参加することに恐れを抱くといいます。

そしてそうした子供は、早くも五歳ごろから新しい人間関係に入る術として、人格を二相にわけるのだといいます。

子供の二相的人格とは、一方の相が空想世界の構築とそこへの引きこもりで成立しており、その安全な世界では子供は統御を失わず、もう一方の相は現実世界における記号のような人格であり、本人はその人格に対して無責任だという、人格の分裂をいいます。

殺人衝動―人はなぜ人を殺すのか」を著したワシントン州検事総局のロバート・D・ケッペルによれば、彼が小学校上級へ進み、もし現実世界へ導いてくれる大人や友人に恵まれなければ、より空想の人格に深入りしはじめることになります。

そしてこの人格の二重構造は非常にエネルギーを要するため、厖大なストレスを蓄積させ、それが怒りをかき立てます。

二相的な人格構造の先には、つまるところ人格が負荷に耐えきれなくなるところまで欲求不満と怒りを押し上げてくるのだといいます。

彼が思春期に到達すると、何かが間違っていることに気が付きますが、たとえどんなに苦痛であっても社会に適応できるような選択をしていくかは彼の責任として問われます。

もう一方の道は完全に自分の精神的本籍を空想世界においたまま、体の成熟プロセスや緩和されない怒りや欲求不満と格闘していく道を選ぶかです。

もしそちらを選ぶなら、行動の結果に責任をとらなくてよい子供のままで気が済むまでいられるので、問題の到来は青年期に入る時まで後回しになります。

現にジェフリー・ダーマーやテッド・バンディといった猟奇的殺人者の多くが、そうした二相的人格を形成してきたといいます。

二相的人格の有名な殺人者達はコンフォートゾーン(心理的安楽地帯)と他人の生命の間にある境界線を軽々と一またぎすると、その殺人がはじめての真の自分の表現であるかのように、被害者の切断など、陰惨な殺人形態という”署名”を行いました。

ただし二相的人格をもつ人がすべて犯罪を犯すわけではなく、ほとんどの人が或段階で空想と現実のバランスをとって落ち着くのだといいます。

ケッペルによればそれはたとえば絶えず女子学生に性的いやがらせをくりかえす大学教授や、部下にハラスメントを繰り返すオフィスの上司もまたその側面を顕著に示しているにすぎないということです。

そうしてみれば社会には境界一歩手前の症状としての虐待行動が今日もあふれています。

それらが空想世界に暮らすもう一人の私たちが、現実世界に向けて表現する署名行為の一種であるというのです。

ケッペルは”境界地は愕然とするほど狭く、辺縁に位置する人々の数はあまりに多い”といいます。

刑法の199条、それは特別な人のために用意された特別な条文ではなく、わたしたちを押しとどめる作用さえ期待されており、踏みとどまれているわたしたちには、少年に境界をまたがせる要因を社会からひとつずつ除去していく責任が負わされているとも解釈できます。

 

 

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2007/04/26

自己はどこにあるのだろう

六本木キャバクラ社長ら逮捕=店員を監禁暴行、重傷-ホステス他店紹介で・警視庁
「ホステスを他店に紹介した男性店員を監禁、暴行し、重傷を負わせたとして、警視庁麻布署は25日までに、逮捕監禁致傷容疑で、東京都港区六本木の有名キャバクラ「チック」社長瀬戸晴夫容疑者(35)=世田谷区世田谷=と男性店員3人を逮捕した。同容疑者らは容疑を認め、「男性が、自分がスカウトした女性をよその店に回したため、腹が立った」と供述しているという。」

刑法の220条をごらんください。

第220条(逮捕及び監禁)

「不法に人を逮捕し、又は監禁した者は、三月以上七年以下の懲役に処する。」 

監禁とは、人を一定の区域内に置いて、そこから脱出することができないようにすることをいいます。

それは脱出が絶対に不可能である必要はなく、とても難しければ不法監禁罪になります。

手段は暴行・脅迫によらなくても、例えば勘違いを利用しても不法監禁にあたります。

逮捕・監禁という罪は、わたしたちの身体活動の自由を誰かによって奪われないために設けられた概念です。

実はその条文がどんな利益を保護する一条なのかをめぐっては、「行動したいときに行動できる自由を保護しているのだ」と考える可能的自由説と、「現実に行動に移したときに自由を妨げられない利益だ」とする現実的自由説とが学説上対立しています。

そして判例や学説上の通説は「監禁罪は行動したいときに行動できる自由を保護しているのだ」と解釈しています。

それは身体を一個の物質として見るのではなく、わたしたちという本質を乗せたそれぞれの身体が移動を開始しようとした刹那、すでにそれが可能であるという状況確保への司法的価値判断だと思われます。(私見)

そこに存在する議題は、身体の両義性(引用:法と身体 森田成満)という言葉に置き換えることが可能です。

かつてガブリエル・マルセルは身体の両義性について「存在と所有 (1970年)」のなかで語っていますが、哲学者鷲田清一はそれを要約し、以下のように述べています。

「ひとが「もつ」ことのできるもの、あるいは「所有」することのできるもの、それはガブリエル・マルセルも言っていたように、そのひとにとってなんらかの意味で<外>にあるものであ[る]。…そのとき、「わたし」にとっての外側が皮膚の外側であるとすると、「わたし」は皮膚の内側、つまりこの身体であると考えられていることになる。「わたしは身体である」というわけだ。これはとりもなおさず「わたしは身体をもつ」のではないということである。」(参照:鷲田清一 悲鳴をあげる身体

現実的な移動が遮断されていなくとも監禁罪が成立するのは、身体の自由を奪われることが、身体を脅かすと同時に、身体よりも奥に存在するわたしたちの本質の、その機能を脅かしてしまう行為だからかもしれません。(私見)

なによりそこには難しい哲学を用いなくとも、「私とは身体であり、また身体以上のものでもある」という身体的な感触が常に存在しています。

もし不幸にもあなたが体の一部を失ったとき、あなたはあなたでなくなるのか、そうでないなら、あなたが重要だと考える体の一部を欠損してしまえば、もはやあなたは誰でもなくなるのか、監禁罪という一条の法益を探っていくことで、わたしたちはたどり着きがたい命題の顔を見ることになります。

 

 

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2007/03/24

Curiosity killed the Postman

有名人の年賀状、ネットに文面公開…元郵便局員を送検(読売新聞)
「調べによると、元職員は昨年12月末、同郵便局で仕分け中に有名人の年賀状を見つけ、ミクシィの自らの日記に、有名人の名前と、その文面を書き込んだ疑い。元職員が、仕分け中に見つけたと書いていたため、1月下旬、サイトを見た会員が九州支社に通報した。同郵便局は、ミクシィの運営会社を通じて書き込みを抹消するとともに、今月13日、元職員を懲戒免職処分にした。」

郵便法の9条をごらんください。

第9条(秘密の確保)

「公社の取扱中に係る信書の秘密は、これを侵してはならない。

2 郵便の業務に従事する者は、在職中郵便物に関して知り得た他人の秘密を守らなければならない。その職を退いた後においても、同様とする。」 

憲法の21条2項後段には、「通信の秘密は、これを侵してはならない」と定められています。

ここでいう通信の秘密とは、手紙や葉書だけに限られず、電報や電話などの秘密を含む広い意味に解されています。

通信とは誰かへ意思を伝えるという一つの表現行為なので、通信の秘密は表現の自由の下で保障されることは明らかです。

しかし通信を秘密にするとは、誰かと誰かのコミュニケーションを保護することにあり、それは公に対するあからさまな表現というよりも、私生活・プライバシーの保護の一環としての意味のほうがより重要になります。

よって通信の秘密は単に文面を保護するだけではなく、差出人や受取人の名前、住所、何通出されたのか、いつ出されたのかなどにも保障が及ぶと解釈できます。

そして憲法が”通信の秘密を侵してはならない”と命ずる先には二つの標的があり、ひとつは権力によって通信の内容や存在自体が調査の対象とはされないこと(積極的知得行為の禁止)、もうひとつは通信業務に従事する人が職務上知りえた情報を漏洩されないこと(漏洩行為の禁止)を 意味しています。[参照:憲法〈1〉 野中俊彦 有斐閣 第4版]

地方で郵便業務にたずさわっていれば、都心に暮らす有名人が”また人である”という単純な感触も薄れがちになり、より記号的になるかもしれません。

しかし通信にたずさわるその職場は、日常的にわたしたちの心を開示した記録を扱っていて、職員が倫理に抗えば、いくらでも誰かの心をあざけり、また晒すことが可能になる特殊な側面を有する場所です。

だからこそ憲法は、通信の秘密の第二の面として、郵便の業務に従事する人に職務上知りえた他人の秘密を守らなければならない、という特殊命令を郵便法を通じて発しており、それこそが9条2項なのです。

心を誰かによってあげつらわれないことの保障が、有名人にも、悪人にも、そしてもしかすると通信業務に従事するあなた自身にもなんの留保もなく与えられていること。

それが旧憲法にはなかった現行憲法のメインスペックのひとつです。

 

 

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2006/12/04

侮辱は何を砕くだろう

[死亡児ネット掲載]出元不明の悲惨事故写真も 小学校教諭(Livedoor)
「羽村市教委は4日、記者会見し、問題の教諭がHPに犯罪被害者の顔写真を掲載し、被害者を揶揄(やゆ)するような不適切な記載をしていたことを、今年6月の段階で把握していたことを明らかにした。また、この教諭について、渡辺敏郎教諭(33)と実名を発表した。角野征大教育長は「結果として教壇に立ち続けさせたことには、痛切に責任を感じている」と陳謝した。」

刑法の231条をご覧下さい。

第231条〔侮辱罪〕

「事実を摘示しなくても,公然と人を侮辱した者は,拘留又は科料に処する。」

刑法において名誉に対する罪は、人の名誉を保護するためにそれを公然と傷つける行為を犯罪としたものです。

わたしたちが誰かからその名誉を汚されれば、同時に社会的な生活関係も破壊されます。

そこで刑法は誰かが人の名誉を傷つけた場合、犯罪として厳密に処罰することにしているのです。

ところで侮辱罪は、どんな社会生活上の利益を保護しているのでしょうか。

法学上の通説や判例は、名誉毀損罪も侮辱罪も同じく「外形的な名誉」を保護していると考えます。

しかし刑法学の小野清一郎先生によれば、侮辱罪は名誉毀損罪とは異なり、「自己に対する価値意識・感情としての名誉感情」を保護しているのだということになり、その説は学問上いまだ有力視されています。

では市井のわたしたちにとって、”名誉”というものの本質は、どこにあるのでしょうか。

この点、山本雅子先生は論文集「日本刑事法の理論と展望(信山社)」において、「230条以下の存在根拠は憲法の基本的人権に求めなければならないから、社会的な存在として誰しも有しているはずの人間としての尊厳が社会的名誉の内実となる」という鋭利な一文を寄せられています。

つまり「尊厳」、それこそが侮辱罪をつきつめて考えていくと行き止まりにあらわれる言葉だということです。

「尊」という字の次になぜ「厳」という字が連なっているのか、そこには人を侮辱してはならないことの歴史と本質が表現されています。(私見)

 

 

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2006/06/29

上場企業は路上から生まれた

路上生活から上場企業社長に――オウケイウェイヴの兼元氏(NIKKEI IT PLUS)

「東京で事業をしている知り合いの社長がいて、その人をあてにして上京しましたが、『自分で何とかしろ』と言われ一蹴されました。仕事だけでも紹介してほしいと頼むと名刺のデザインをする仕事をもらいました。しかし、1枚あたり1000円程度。東京に来るときにあったお金は仕事用のノートパソコンを買ってなくなったために、とても家は借りられません。ノートパソコンを持って、駅の周辺や公園のトイレ、ドーナッツショップで追い出されるまでコーヒー1杯で粘ったりしました」「半年ぐらいすると、デザインの仕事もとにかくたくさんこなしたので、安定した量の仕事をもらえるようになりました。月30万から40万円ぐらい。家を借りることも考えましたが、名古屋に残してきた妻子のために仕送りすることを考えるとそれどころじゃなかった。寝袋を持って、友人の家に泊めてもらったり、公園で寝たりということが結局2年間続きました」

ホームレス自立支援法の2条をご覧ください。

ホームレスの自立の支援等に関する特別措置法

第2条

「この法律において「ホームレス」とは、都市公園、河川、道路、駅舎その他の施設を故なく起居の場所とし、日常生活を営んでいる者をいう。」 

ホームレス自立支援法という時限法(10年)は、「ホームレスを自立させる」という思想が下敷きになっています。

裏返せばそこにはホームレス問題とは、「自立心にかけた人達の固有の問題だ」という世界観が潜んでいるといえます。

支援法2条によってホームレスを「家がない」という状況により定義づけている以上、たとえ彼がノートパソコンを抱えた後に上場企業の社長になる人であったとしても、家がなければホームレス自立支援法が彼を「自立心の欠けた人間である」と定義づけることになります。

文言の恐ろしさとは、それを封じ込める時の時代の社会を誰も客観視することができないというところに集約されます。

ホームレスとそれをとりまく社会、行政、あるいは法の問題とは、「彼らは果たして怠け者なのか、落伍者なのか」という点の根本理解にかかっているといえます。

私がアメリカで暮らしていた頃、日系商店の店先に置かれていたフリーペーパーの編集長が、ホームレスの人達のことを「怠惰な人たちであり、自己責任である」という記事を掲載したことがありました。

日本語で書かれた日系社会のローカルフリーペーパーでしかないにもかかわらず、米国社会からはその未熟な見識に対してすかさず大量の激しい抗議が行われ、翌号では若い編集長の素直な反省の弁が掲載されたものです。

率直に言ってその問題の本質は明日のわたしやあなたにも訪れるやもしれない心の構え方の変質にあり、支援法2条にいうような家がないという状況はそれが要求した副産物でしかありません。

それを証明するかのように、アメリカでは出征前立派な社会人だった州兵の多くが帰還後、心ならずもホームレスという状況に陥ってしまうという事態が社会問題化しているといいます。

激しい経済競争社会において、誰もが突然心折れて明日路上に現れることは決して珍しい話ではありません。

あの公園で寝泊りされている方々と、住所をもって生活できているわたしたちが、完全に線引きできるほど異なった人間なのかどうか、問題の核心をわたしたちが捕らえられるかはそれをイメージする気があるかどうかにかかっています。

もとよりわたしたちの価値観は常に発展途上にあります。

ホームレスという状況の中から自分のビジネスを上場させるまでに成長させた人のニュースは、問題をホームレス側に転化している時限法の世界観にも小さな疑問符をひとつ投げかけてはいないでしょうか。





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2005/12/02

アイちゃんが好きだと叫んで地下鉄は滑走した

運転士が奇声、地下鉄乗客が通報 「独り言が…」と釈明(朝日新聞)
「30日午後9時半ごろ、走行中の東京メトロ東西線で男性運転士が奇声を発し、不安に思った乗客が最寄り駅の駅員に異常を伝える騒ぎがあった。乗客によると「アイちゃんが好きだあ」などと大声で叫んでいたという。東京メトロは運転士を5駅先で交代させた。」

運転の安全の確保に関する省令の2条1項をご覧下さい。

第二条(規範)

「従事員が服ようすべき運転の安全に関する規範は、左の通りとする。
 一  綱領
   (一) 安全の確保は、輸送の生命である。
   (二) 規程の遵守は、安全の基礎である。
   (三) 執務の厳正は、安全の要件である。(以下略)」 

省令第五十五号は、鉄道営業法第一条及び軌道法第十四条の規定に基いて、運転態度の基礎的基準を定めたものです。

電車の運転士になろうと試験を受けた人は必ずこの綱領を丸暗記したはずなので、文言としては今回の運転士さんもご存じだったはずです。

ただしなにをもって”執務の厳正”の限界とするのかは、いささか個人の感性に任せられてきた部分もあるのかもしれません。

しかし鉄道に関する重大な事故が続いているこの国において、わたしたち乗客はあまりその限界に寛容ではいられなくなっています。

たとえ地下鉄の轟音にかきけされることを期待されていたとしても、乗客室に聞こえるまで大声で独り言を言ってもらってはやはり安心して乗っていることはできません。

運転士がいかにも厳正に執務を執り行っているような服装、所作、態度を身にまとうことは、その実質的な運転技術とは別に運転の安全の確保に関する省令の精神が求めるところだと考えられます。

なぜならば、たとえ技術的は現実に危機に直面した状況をつくらずとも、その危険の予感を乗客に抱かせるだけで十分に綱領の(1)、”安全”の糊代を浸食するからです。

乗客は、一旦鉄道に乗ってしまえば停止するまで出ることも降りることも許されないアルミの箱の中で命運をいやおうなく運転士に任せていることになります。

そしてわたしたちにとっても日常的にお世話になる電車の運転士さんとの関係をいちいちそこまで掘り下げなければならないようなニュースを聞くことは、決して幸福なことだとはいえません。

日常的に重責を担う運転士さんに、もし精神的ケアが必要であるならばこれを速やかに行ってもらう必要があります。

またそれが必要でない運転士さんたちにあっても、運転中の所作が”安全”全体のパースペクティブにどう影響を及ぼすのか、再確認する価値はあるはずです。

 

 

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2005/11/29

釈迦の化身と呼ばれる少年とやわらかい言葉

瞑想続ける「釈迦の化身」少年の謎究明へ=ネパール当局(Yahoo)
「ここ数週間、釈迦の化身だと信じられているその少年ラム・バハドゥール・バムジョン君を一目見ようとネパールやインド近隣から少なくとも10万人の信者がネパールやインド近隣からネパール南東部バラの密林に集まっている。少年の仲間によると、少年は6カ月間、食べ物や飲み物を一切口にせず瞑想を続けているという。」

騒音規制法の第28条をご覧下さい。

第28条(深夜騒音等の規制)

「飲食店営業等に係る深夜における騒音、拡声機を使用する放送に係る騒音等の規制については、地方公共団体が、住民の生活環境を保全するため必要があると認めるときは、当該地域の自然的、社会的条件に応じて、営業時間を制限すること等により必要な措置を講ずるようにしなければならない。」 

あなたもわたしも起きている間中、頭の中の会話を辞めることはなかなかできません。

だれかと会話中であっても、一方で別のことを考えていたりします。

あまりにも混乱した脳内の会話に無意識でうんざりしているわたしたちは、少しでもこれをなだめるべく携帯電話に夢中になったり、あるいは一心不乱にパチンコやゲームに打ち込んだりして気を紛らわしています。

つかの間の”統一された静かな自分”なら、お金を払った分だけ手に入れることはできるというわけです。

一方で、瞑想という一つの方法もあります。

瞑想は本来宗教などとは関係がなく、要は音楽でもかけて一定時間黙って座っていることで、頭の中に会話のない統一された自分を取り戻そうという方法論です。

わたしたちの身には日本語が仕組み上備えている価値観や、互いを共縛りにする耳障りのいいキレイゴトや、財布を開かせる景気のいい商品のキャッチコピーがあたかも自分の考えのように居座ってあちこちに突き刺さっています。

自我は他でもなく言葉で組み上がっていますので、生きていくという取引の中でもたらされたさまざまな言葉の組み合わせがわたしたちに無理なテンションをかけることがあっても、一概にわたしたち自身の責任とばかりはいえません。

受け入れたくなくとも受け入れざるを得ない種類の言葉の洪水の中を、毎日歩いているのです。

幸い体力的な部分では、夜も深くなれば騒音規制法の28条が飲食店などが騒音を出すことを禁じてくれています。

これは憲法25条が保障する生存権の部分的現出ですが(私見)、法の力は睡眠という肉体的な復元のための時間を確保してくれているのです。

一方、精神的な部分、つまり頭の中の雑音には、さすがに法の手も届きません。

だからといって私のような信仰のない人間に、ネパールの少年のような寝食を忘れた半年以上の瞑想ができるとはとても思えませんが、自分の言葉で自分がやがて混乱してしまわないよう対処は必要です。

ファミレスで古い友達にでも会って、やわらかい言葉を取り戻す時間は時々あっていいかもしれません。



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2005/11/10

執着:怒りの正体

大仁田氏「太蔵よオレの母校に勝手に行くな」 明大学園祭訪問に怒った(読売新聞)
「大仁田氏は怒り心頭。誰でも入れるはずの学園祭なのに「オレの母校だ!」と自分の“縄張り”であることを主張。「勝手に行くな!」と筋違いの爆発をみせると「オレに許しを得てから敷地に入れ」とほえた。」

憲法の第19条をご覧下さい。

第19条〔思想および良心の自由〕

「思想及び良心の自由は,これを侵してはならない。」 

他人の行動にどこまでも問題の出所を見ようとする大仁田さんにあっては、現在とっても内心ただならぬ状態にあるのだとお察しします。

私たちは、いったいどうすれば、他人の行動に関わらず、内心の平和を得ることができるのでしょうか。

分析心理学では自分の中にかかえる問題が外界に投映されることを「投射された主観の同化」といいます。

そしてこの投射から生じる欲求こそ、依存、すなわち他者の状態に自己の問題の解決を委ねてしまい、執着する状態の正体だとされ、その解決方法としては内的発達が不可欠です。

ここで内的発達とは、自分の人生で起こったことに対して誠実に向き合い、これを検討することで促される成熟のことであり、より正直に検討していけばこそ、投射された感情はおのずと消滅していくのだとか。

その後は投射された主観が再び同化されるたびに、わたしたちは他人の心理を自分の経験のように理解するようになれるのだと考えられています。

そしてそのことは決して自分を放棄することではなく、自分の問題解決を他人への執着で解決しようとする態度から自由になることを意味します。

憲法19条は、国家という外部の力が私たちの心の形を力ずくでかえてしまうことを禁止してくれています。

それは私たちが戦争に負けるまで、国家によって内心の形が強制されていたという時代意識を一回フラッシュし、わたしやあなたの本音の部分を一つ一つ明らかにしてから、それによって国の行方を決めようという新ナビゲーションシステムのための条文です。

そのナビの名を立憲民主制といいます。

戦後の憲法で、内心の形が外から壊されないことは保障されました。

ただしその本質的発達は各人に委ねられていますし、国の状態とは関係なく、その発達の度合いによっては人に世界を赤くも黒くも見せるのです。
 

 
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2005/10/28

トイレの的とアウトカムの効用

関空トイレ、美化的中 男心射抜いたダーツの「的」(朝日新聞)
「直径3センチの丸いシールが関西空港のトイレの美化に威力を発揮している。男性用小便器に張られた「ターゲットマーク」。的があると狙いたくなる人間心理に目をつけ、便器の外にこぼれるのを防ごうという試みだ。1年前に職員の提案で始めたところ、効果はてきめん。」

民事訴訟法の166条をご覧下さい。

第166条(当事者の不出頭等による終了)

「当事者が期日に出頭せず,又は第162条の規定により定められた期間内に準備書面の提出若しくは証拠の申出をしないときは,裁判所は,準備的口頭弁論を終了することができる。」 

民事訴訟における準備的口頭弁論とは、法定での本格的な言い争いに先だって円卓について行われる、ざっくばらんな争点整理のための話し合いです。

争点整理とは、「この裁判でどういう点を争うべきかをはっきりさせる」ということです。

そして残すは証拠調べのみという段階にまで話し合いが成熟すれば、裁判所は準備的口頭弁論を決定で終了させます。

裁判所がその話し合いを終了させる権限をもたせることの意味は、そのことで原告と被告に終わりのない主張のしあいをさせることを自戒させ、話し合いに目的意識を持ち込むものであるといわれています。

民事訴訟法においては、できうる限り妥当な結論を導き出すという目的もさることながら、裁判所という公共の器を使用する以上、だらだらといつまでも非効率的な使用の仕方は避けるという「訴訟経済の効率化」といった大命題が存在しています。

それは各人の時間が有限である(皆必ず死ぬ)という唯一間違いのないルールが下敷きになったものでもあります。

皆寿命があるのに、裁判が何十年もかかるものならば、「裁判所など使わない方法によるほうが」という発想が社会に根付いてしまうかもしれません。

各人が「裁判所による時間限定という枠の中で、争点をはっきりさせる」という目的意識をもって民事訴訟に参加することが、裁判所という公器をより効率的に回すのだというのが民訴166条の趣旨だといえます(私見)。

人と人がいっしょになにか形在る物を作りだそうとするとき、必要なのは各人が目標ではなく目的に意識的になることとそのすりあわせだといわれます。

目標というあやふやな的では私たちは事は成し遂げられず、まるで鉛筆の先のようにシャープに削りだした各人の目的、「アウトカム」をイメージして、お互いに確認することで私たちにはともに目指す場所に到達することが確約されるというわけです。

逆に言えば私たちの大脳新皮質は、アウトカムがはっきり提示されれば、それに向かって走ることを止められない特質さえもっているワケもなく生産的な臓器だといえます。

社会のあらゆる問題に対して、適切な問題解決のためのアウトカムが貼られれば、関西空港のトイレの美化がいつのまにか実現してしまったように、私たち自身の持って生まれた特質が問題を本能的に解消してしまっているかもしれませんし、人間とはきっとそのために生まれてくる存在なのかもしれません。
 


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2005/10/17

地域に公認されるネオナチと置き去りの果実

ネオナチのデモで騒動 米オハイオ州 (産経新聞)
「ネオナチのグループは「白人住民に迷惑をかける黒人を批判する」ため、市内でデモを計画。これに反対するため集まった人々が、警戒中の警察車両などに投石し、付近の民家に放火するなどの騒動に発展。群衆の数は一時、600人近くに達した。」

人種差別撤廃条約の第4条をご覧下さい。

あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約

第4条

「締約国は、一の人種の優越性若しくは一の皮膚の色若しくは種族的出身の人の集団の優越性の思想若しくは理論に基づくあらゆる宣伝及び団体又は人種的憎悪及び人種差別を正当化し若しくは助長することを企てるあらゆる宣伝及び団体を非難し、また、このような差別のあらゆる扇動又は行為を根絶することを目的とする迅速かつ積極的な措置をとることを約束する。このため、締約国は、世界人権宣言に具現された原則及び次条に明示的に定める権利に十分な考慮を払って、特に次のことを行う。

(a)人種的優越又は憎悪に基づく思想のあらゆる流布、人種差別の扇動、いかなる人種若しくは皮膚の色若しくは種族的出身を異にする人の集団に対するものであるかを問わずすべての暴力行為又はその行為の扇動及び人種主義に基づく活動に対する資金援助を含むいかなる援助の提供も、法律で処罰すべき犯罪であることを宣言すること。

(b)人種差別を助長し及び扇動する団体及び組織的宣伝活動その他のすべての宣伝活動を違法であるとして禁止するものとし、このような団体又は活動への参加が法律で処罰すべき犯罪であることを認めること。

(c)国又は地方の公の当局又は機関が人種差別を助長し又は扇動することを認めないこと。」

外務省ホームページより

ニュース映像を見ましたが、衝撃的だったのは白人グループが従来のKKKのように白頭巾で顔を覆うこともなく、素顔を出したままハーケンクロイツの腕章を腕に堂々と巻いて主張する姿でした。

顔を出しているということは、地域がその思想団体をある意味公然と容認していることの証左になります。

ネオナチズムはすでにただの「抑えきれない感情を持つ者同士の集団」という枠を超えて、思想団体としての確固たる地位を世界中で固めつつあるようです。

1966年、黒人大学生ジェイムズ・メレディスがメンフィスから始めた「恐れに抗う行進」(March Against Fear)は、多くの黒人達に選挙権登録を呼びかけながら進みましたが、その参加者たちは州警察によるガス弾、暴行による妨害を受けました。

それはたった40年前の出来事ですが、時の大統領や司法長官はその時代この事態を一切取り上げようとしませんでした。

遡れば、黒人を解放したリンカーン大統領は反対陣営の放った刺客によって「暴君」呼ばわりされた上、劇場で射殺されています。

人種差別撤廃条約はこうした思想に対して国家が放置、または加担することを防ぐため、1965年国連で採択され、ちょうど「恐れに抗う行進」が行われた年の3年後、1969年に発効しています。

人の胸が他人に対する怒りで一杯になるのは、いつも事態の責任を自分で引き受ける覚悟ができないときなのだといいます。

もしそうであるなら一切の外国人を自国から追い出した後、不況や政策に対する不満が解消されない時、今度はより純血度の低い人間を捜し出して排斥するという無限ループに陥ることになります。

排斥思想の終わりに待っているのは、結局社会の動脈硬化であり、個々人の発達の行き止まりでしかありません。

反対に、事態の一切の責任を私たちが引き受けはじめるとき、そこに転がっている問題は、反転のための燃料に転化することが可能になります。

そしてそれは、その場所でしか手に入れることのできない果実です。

驚くべきことに、私たちの政府がそうした姿勢を選択してこの人種差別撤廃条約に加入したのは今からたった10年前、1995年12月のことであり、加盟の順番は実に世界で146番目のことでした。


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2005/08/02

永岡議員の自殺と精神32条の行方

自殺の永岡議員、精神疾患で投薬…昨年末から体調不良(読売新聞)
「同署の調べや関係者の話によると、永岡議員は昨年末ごろから体調不良を訴え、都内の病院で診察を受けたところ、うつ症状とみられる精神疾患と診断されたという。通院しながら、投薬治療を続けていたといい、自宅からも治療薬が見つかったという。」

精神保健福祉法の32条をご覧下さい。

精神保健及び精神障害者福祉に関する法律

第32条(通院医療)

「都道府県は,精神障害の適正な医療を普及するため,精神障害者が健康保険法第43条第3項各号に掲げる病院若しくは診療所又は薬局その他病院若しくは診療所又は薬局であって政令で定めるもので病院又は診療所へ入院しないで行われる精神障害の医療を受ける場合において,その医療に必要な費用の100分の95に相当する額を負担することができる。」

うつ病とは症状面では物事を悲観的に捕らえがちになる精神面の疾患で、それをきっかけとして身体のあちこちに不調を呼ぶ病気です。

その原因はいまだはっきりとは解明されていません。

しかし心といえども脳内物質の分泌が関わるゆえ、現在では対処療法としていろいろな薬が開発されています。

精神保健福祉法の32条は人知れずうつで苦しんでいる方々を地方自治体が経済面からバックアップすることで問題を早期解決することを目指して立法されています(私見)。

うつはただでさえ、周りから、そして自分自身から誤解を受けやすい病気です。

うつと、単に落ち込んだ人の見極めは難しく、これまでの私たちの社会ではうつに罹患した人を見ると、つい本人の責任にしたくなったり、本人自身も責任は弱い自分にあるのだと責めたりしていました。

しかしうつ自体はストレスを原因として、私にもあなたにも、どのような人にもあっさりと罹患する可能性があります。

通院医療費公費負担制度、通称「精神32条」の立法意義は、これからよりストレスフルな社会になっていこうとする現代において、ますます価値が高くなりつつありますが、実はもっと患者に負担してもらうよう改正されようとしています。

このため現在精神的疾患に苦しんで長期通院している人たちの間からは改正しないでと言う悲鳴が上がっているところです。

うつが心のカゼのようなものだとしても、それはカゼという立派な病気であると本人も周囲もはっきり認識することが治療の第一歩になるのだといいます。

治療費の95%を地方が負担する現状の32条は、本人に「ちょっと病院に行ってみようか」と思わせ、うつの認識の道をつけることに非常に資している内容の法であるといえるでしょう(私見)。

法は時に財政上の理由からも改正が必要になります。

しかしそれが精神医療に及ぶものなら、うつが最悪の場合、自らの命を絶つ道を選んでしまうデリケートな性質をもち、その罹患はこの忙しい世の中を生きる誰に対しても非常に容易であることを理解している人の手によって改正されることが必要最低条件です。
 

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2005/04/28

ホームで化粧を注意されたひとと道徳の法律化

ホームで化粧注意され電車に接触させる・傷害容疑で女逮捕(日経新聞)

平成7年に削除された刑法の旧200条をご覧ください。

旧第200条(尊属殺)

「自己又は配偶者の直系尊属を殺したる者は死刑又は無期懲役に処す」
 

この規定が削除されるほんの10年前までは、私たちの社会では親を殺すと他人を殺した場合に比べて非常に厳しい刑が待っていました。

かつてこの規定の違憲性が争われた裁判において、最高裁裁判官多数意見は「尊属殺規定は道徳の要請であり、これを否定することは、道徳を封建的、反民主主義的と断定するものだ」として、結局尊属殺規定を合憲判断しました。

しかしこの判決にはその後不満がくすぶり続け、昭和48年に父親に犯されつづけた娘が父親を殺した有名な最高裁裁判判決において旧200条がやっと違憲無効であるとされました(最高裁 昭和四八年四月四日 大法廷判決)。

さらにそれから 20年まって尊属殺規定はやっと正式に刑法から削除されたのです。

道徳に対する法律の限界の問題は、ちょうどシルバーシートの問題に似ています。

シルバーシートのようなルールが道徳を半ば浸食した状態は不心得者を減らす反面、私たちの手から徐々に自治意識を奪ってしまう萌芽を含んでいます。

あれを見るとき、あなたの中になにか居心地の悪さを感じたことがあるならあなたは本来私たちが法の規定から守るべき意義深いエリアの軋む音を聞いたのかもしれません。

道徳というのはなにも日本固有の価値観ではありません。

カリフォルニアのDMV(免許をとる所)で私は、学科の他に極簡単な 20分程度の実地試験を受けて彼の地の免許の交付を受けましたが、その際、緊急車両に対する対応方法などとくに教わりませんでした。

にもかかわらず、アメリカで運転しているときに救急車が近づいてきた場合、例え反対車線であろうとも運転している人は皆、一斉に道路脇に車を寄せますし、私もそうしていました。

救急車の横をすり抜けて走る日本の運転とは確実になにかが違っています。

アメリカでは放っておくと世の中は何でもありになるということを皆が身に染みているのです。

いろいろな国からきた人たちが自ら合衆国への帰属を希望し、社会の自由は自発的規律で皆がこれを極力保護しようとしています。

老人に席を譲れ、電車やホームで化粧をするな、書店やコンビニで携帯を大声で使うななどは現在法律・条例の領域ではなく、個人の育ちの問題です。

むしろ問題なのは、こういった粗野な行為に関わってヒステリックな事件が頻発するようになった私たちの社会では、放っておく以外の選択肢が狭まって、社会の共通態度が徐々に硬化していくというところにあります。

それは私たちの自由をさらに国家任せ、法律まかせにしていく危険を孕んでいます。

法律など当然万能ではなく、むしろ法に管理させない聖域に対してあなたがどのような心的態度で臨むのかが、一生の色付けにとって決定的に重要です。

尊属殺規定の削除によって、やっと刑法は道徳から解放されました。

しかしそれは道徳が野に下ったことをあらわすものではなく、道徳が本来の高みに登った瞬間だったはずです。

私たちはその意味を再認識すべきタイミングにさしかかっています。
 


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2005/04/14

心の喪失と罪の未決済

東京高裁、安部被告の薬害エイズ公判の停止継続(日経新聞)

「弁護側は安部被告と同じ患者について元厚生省生物製剤課長、松村明仁被告(63)の無罪が確定したことから「安部被告の無罪も明らか」と主張したが、同高裁は専門医と行政官という立場の異なる両被告は「注意義務の基礎となる具体的事情を異にする」と指摘。」

刑事訴訟法の314条をご覧ください。

第314条〔公判手続の停止〕

「被告人が心神喪失の状態に在るときは、検察官及び弁護人の意見を聴き、決定で、その状態の続いている間公判手続を停止しなければならない。但し、無罪、免訴、刑の免除又は公訴棄却の裁判をすべきことが明らかな場合には、被告人の出頭を待たないで、直ちにその裁判をすることができる。」

刑事訴訟法314条にいう心神喪失とは刑法上の心神喪失と状態が違います。

刑法のそれは精神機能の障害により,是非善悪を判断することができないか,又はその判断に従って行動することができないまで進んだ状態をいいます。

しかし刑事訴訟法においては一定の訴訟行為をなすに当たり、その行為の意義を理解し、自己の権利を守る能力がないことを意味します(判例)。

つまり314条の立法趣旨はあくまで「フェアな手続き制度」を死守し、例えばやらかした罪はせいぜい懲役刑が妥当なのに、自分が十分に主張することができず、正気に戻ってみたら絞首刑台の前にいたという状態を避けようとするところにあります(私見)。

その意味で誤解してほしくないのは、「刑事訴訟法上で心神喪失だから手続きを継続しない」というのは「刑法で心神喪失により罪に問わない」という話とは全く次元が違うということです。

もし心神喪失者に罪があったなら刑法はそれを贖いますが、刑事訴訟法は本質的レベルではそれを贖いません(私見)。

俗に弁護士は井戸に子供が落ちてもいっしょになって騒がず冷静に井戸の周りを回れというそうです。

弁護士がひきづられて熱くなっていたら事態をもっとも効率よく解決することができないという形式的教訓でもあり、みんな真っ青になって飛び込んでくる依頼人の感情にいちいち同情していては体が幾つあっても足りないという実質的教訓でもあるようです。

おそらくお医者さんも毎日つらそうな顔をして現れる百人単位の患者にいちいち感情移入していてはたまらないという面は否定できないのでしょう。

だいいちそれでは毎日人の腹をメスで開くなんてできないかもしれません。

人を三人殺してやっと一人前の医者だという言葉もあるそうです。

医療事故、あるいは業務上過失までしか評価されない医療現場での実験行為を生む素地はこういった職業的変性意識にあるかもしれません。

もしそれが”必要悪”だったなら、私たちはこれからも弁護士報酬にあわせて必要的に弁護士にぞんざいに扱われ、医学の進歩のために必要的に死ぬ可能性を甘受すべきなのでしょうか。

その変性意識はあくまで職業的に必要なものではあっても、あらゆる価値は個人の生命という絶対価値の前ではその座を下にするはずです。

過誤があったときは弁護士も医師も法で厳しく結論つけられるべきで、私たちは後世のためにも法制度に活発に参加して必要悪のエリアを少しでも押し戻しつづける義務があります。

今回の高裁の判断はわたしにはそう聞こえます。
 
 

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2005/03/03

ちびくろさんぼと持病への自覚

ちびくろ・さんぼ復刊へ 東京の出版社が4月に(日経新聞)

国際人権規約第2条第1項をご覧ください。

第2条(人権実現の義務)

「1 この規約の各締約国は、その領城内にあり、かつ、その管轄の下にあるすべての個人に対し、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治的意見その他の意見、国民的若しくは社会的出身、財産、出生又は他の地位等によるいかなる差別もなしにこの規約において認められる権利を尊重し及び確保することを約束する。」

拘束力のなかった世界人権宣言を推し進め、加盟国に対する法的拘束力を認めたのが国際人権規約です。

世界人権宣言が約60年も前に採択されていることを考えますと、いかにこの問題が討議によっては解決しがたい要素を含んでいるのかが汲み取れます。

それはどんな人格者にもおそらく標準装備されている、生存のために属性の異なる他者を排除しようとする旧皮質レベルの本能かもしれません。

人間のそういう性質は、おそらく一生つきあっていかなければならない持病のようなものだと認める勇気が必要かもしれません。

当然にその病気は、文明社会の発展にブレーキをかけてしまいますが、そんな持病はないと覆い隠してしまうことは、より陰湿な構造で本能を発露させてしまう危険性があり、現にそういった社会現象も見られます。

その上で異人種間の礼儀というものを考えれば、それは決して形式上の作法のことではなく、自分にも相手にもそういった病気があることを恥ずかしながらも自覚して、その上で握手を差し出す態度ではないかと思うのです。

それは例えばエディ・マーフィがそのスタンダップコメディで、スティービー・ワンダーの盲目を笑うような表現の仕方のことです。

全ての人は歴史から人類の拭いがたい本能を自覚せよ、そして覚悟してそれを乗り越えよというのが、私なりの国際人権規約第2条の読み方です。
 

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2005/01/05

自由意思という宗教が彼を放免する

横浜山手聖公会に「火つけた」と出頭 米国籍男性を逮捕(朝日新聞)

「調べでは、同容疑者は4日午後6時ごろ、教会内部に火をつけて全焼させた疑い。同教会の信者だという。 放火した動機については「自分でもわからない」などと話す一方、放火の方法などは具体的に供述しているという。 」

刑法39条をご覧ください。

第三十九条(心神喪失及び心神耗弱)

「1 心神喪失者の行為は、罰しない。
2 心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。」

その昔、法を破れば子供も罰せられましたし、家族が大それた罪を犯せば連座して処罰さえ受けました。

現在では違反行為をしたことについて、社会から非難を受けるに値する責任がなければ、その行為は犯罪になりません。

現在の刑法は物事の是非善悪を判断し、その判断に従って行動できる能力がない人の行為は処罰しません。

39条の向こう側に凶悪な犯罪を起こした人々が消えてしまうとき、シンプルに、人はこう思います。

「何故なのか?」

現在の通説は、なぜ責任能力がない人の凶悪犯罪を犯罪と呼ばないのかという問いかけに、自由な意思決定を行いうる人が道義的に非難できないから、と回答します。(道義的責任論)

根底を流れるのは、人間の一生には、その自由意志が貫徹しているという希望への信仰です。
 


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2004/12/28

レニ・リーフェンシュタールと誰しも持つ種子

憲法14条の第1項をご覧下さい。

第14条

「すべて国民は,法の下に平等であって,人種,信条,性別,社会的身分又は門地により,政治的,経済的又は社会的関係において,差別されない。」

予備校で憲法を習った女性の先生は人権派弁護士で、授業の合間によくそういったエピソードが挟まれましたが、その中で一つだけひっかかっているエピソードがあります。

「私は択一の時、音の対策はできるけど臭いの対策が困るわねぇなんて女友達と良く話しました。」というものです。

私自身は答練でも集中できない程の体臭を経験したことはありませんが、そのとき唐突に昔あるドイツ人から聞いた話を思い出しました。

昔(おそらくいまも赤坂のドイツ関係施設に勤めている)ドイツ人から中古車を直接買ったことがあって、その人の自宅まで車を受け取りにいったことがありました。

居間に上げてもらってお茶をいただいているとき「ドイツといえばレニ・リーフェンシュタールっていましたね」と私が話をふったときです。

(レニはナチスの映画をとった写真家で、日本ではパルコの広告写真などを撮って有名です。)

日本人にとってはただの美しい写真を撮る写真家で、私自身感性と罪は別であるというふうに考えていましたが、そのドイツ人は静かな怒りを抑えながら30分以上レニ・リーフェンシュタールという感性の本質について語り始めました。

何故彼女は美しい肢体ばかりを撮るのか?何故彼女がナチス映画を撮影したのか?日本人が暢気にかたるようにレニは政治的に不勉強だっただけなのか?

彼にとっては答えは明らかで、すなわちそれは優性思想です。

美しいものは存在価値があり、そうでないものは排除したいという人類に拭えない汚点を残した思想です。歴史を前にしたとき、簡単に彼の話を極論とはいえません。

「優性思想を武力で実行したのがナチスであり表現で拡張したのがレニである。彼女がナチスに協力したのは、日本人が同情気味に考えているのと180度違う見解をたいがいのドイツ人は持っている」と彼はいいました。

確認していないのでどこまでそうなのか知りません。

私は予備校の女性の先生が陽気に何気なく口をすべらせた一言に、人間が皆もつ「自分と違うものを受け入れない影」の種を、ふと感じ、そのドイツ人のことを思い出したのです。

但し実際にその先生は少年事件に尽力されており、これは簡単にできることではありません。

ひょっとして人は自分の内側のそういった種があることを無意識にでも知っているからこそ (それを意識するしないにかかわらず) その反動として正しいことを行える原動力を得られるのではないかなと思うのです。

「本来誰も人を裁ける側に立つ資格はない」というのは、まさにそういう意味だと思うのです。
 

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