2005/08/19

ストックホルム人間環境宣言と留守番の高校生

ペットのウサギ、妊婦の妻の異変を夫に「伝える」(CNN)
「マーフィーさんはある夜、10ドル(約1100円)で買ったウサギが飼育おりの中でドンドンと音を立てたり、飛び跳ねたりして、異常な音をたてているのに気づき、目を覚ました。再び眠りにつこうとしたが、ウサギの騒音は止むことはない。その時、ふと妻を見たところ、妻が両目を見開いた状態で横になっていることに気が付いたという。すぐに救急車を呼んだ。」

ストックホルム人間環境宣言の第一宣言をご覧下さい。

Declaration of the United Nations Conference on the Human Environment

「1 Man is both creature and moulder of his environment, which gives him physical sustenance and affords him the opportunity for intellectual, moral, social and spiritual growth.」

(私訳)

「1 人は環境により生み出され、環境を形作る。環境は人に生きる術を与え、知恵や規律、心的成長を促す(以下略)。」 

ウサギというのは扱う人によってペットにもされれば、食用にもされ、ウサギにしてみれば人に対する態度を決めかねるところでしょう。

人間はこの地上で最強の生物ですが、いまだ他の惑星に人間と同等、あるいはより高等な生物が存在することを確認できていない以上、わたしたちはまるで両親のいない数週間、家に友達を招いてパーティを始めた高校生のような状態にあります(誰にも怒られない)。

放っておけば、家の中は散らかり物は壊され、いろんな部屋でいろんなことが勝手に起こりだします。

家を平穏にし、留守番の高校生自身が幸福に暮らすためには、決められた日にゴミを出し、整頓を心がけ、パーティ中には物がなくなっていないかをチェックし、大音量のアンプを持ち込もうとする友達にはこのエリアで生活できなくなるからと持ち込みを断らなければなりません。

わたしたちのような、よく地域のルールを知らない留守番の高校生が気を抜いたら最後、暮らしていくための環境は物理学上、自壊する方向に向かうことになっています(熱力学の第2法則)。

これに逆らって心地よく暮らしていくためには、いたずらに人間の利便や時代の好みだけを追求して地球という留守宅を改造すべきではありません。

なぜなら動植物の生命や自然環境など、地球の生態系がいったいどこでどうリンクしているのか、私たちが未だ完全には把握しきれていないからです。

1960年代には人は海や空気が希少な資源だと気づきはじめ、1972年にストックホルムで国連人間環境会議が開催されました。

その会議で採択された宣言がストックホルム人間環境宣言です。

その文章の法的拘束性は弱くとも、そこでは人間にとって環境を欲望のまま食い散らかしてしまうことの科学的予言と憂慮がなされています。

あなたやわたしは環境保護運動をふぬけの戯言だとなどと早計に判断すべきではありません。

ウサギが人の危篤を知らせる事例も、わたしたち留守番の高校生には未だ見えていない、家が美しく機能するための知られざるルールかもしれないからです。
 

法理メール?

| | トラックバック (0)

2005/02/16

京都で松明が灯った

京都議定書発効:温室効果ガス削減に法的拘束力(毎日新聞)

京都議定書の第3条第1項をご覧下さい。

「第三条(数値目標)

1 附属書Ⅰに掲げる締約国は、附属書Ⅰに掲げる締約国により排出される附属書Aに掲げる温室効果ガスの全体の量を二千八年から二千十二年までの約束期間中に千九百九十年の水準より少なくとも五パーセント削減することを目的として、個別に又は共同して、当該温室効果ガスの二酸化炭素に換算した人為的な排出量の合計が、附属書Bに記載する排出の抑制及び削減に関する数量化された約束に従って並びにこの条の規定に従って算定される割当量を超えないことを確保する。」

(意訳:とにかく2012年までに1990年当時より5%二酸化炭素を減らそう)

これが京都議定書で最も重要な項目であるともいわれる数値目標で、あと7年で各国が達成すべき目標が具体的に取り決められています。

環境問題の最大の課題は、それがどうしても我々の中で目前の課題と比較して重要度・緊急度を高く付けられないところにあるのではないでしょうか。

平たく言えば、食べていくのが先だということです。

しかし本議定書に参加しなかったのは決してそうした目前の問題が山積している発展途上国といわれる国々ではありません。

アメリカです。

彼の国に暮らしますと、生まれてから死ぬまで、なにもかも代金を請求される仕組みが骨身にこたえてウンザリすることがあり、食べていくのが先だというルールは、果たして本当に消費者の選択だったのか疑わしくなります。

帝国主義のはじまりは、国内では使い切れない商品や資本を取り除くべく海外市場や海外投資を求めることによって、余剰な富のフローのためのルートを拡大しようとした経済活動がはじまりです。

資本主義国が自国の未利用の富の販路を求めて競争する強欲なプロセスを通じて、帝国主義は戦争への道を切り拓きます。

つまりアフリカを、インドを、中国を、誰がどれだけしゃぶるのかという殺し合いに発展したのです。

京都議定書は確かにアメリカが望むようなアダム・スミスの設計した資本主義の野放図な発展にはそぐいません。

しかし逆にいえばこの一見人のいい取り決めは、資本家でない市井の我々が主導権を取り戻す新しい松明になりえる可能性があります。

煽られてする消費だけを否定すればよいのですから。
 

法理メール?

| | トラックバック (4)