2007/05/27

同性を愛する誇り高き人々

<結婚式>同性愛者の元大阪府議、女性パートナーと公園で  [毎日新聞]
「元大阪府議で同性愛者の尾辻かな子さん(32)が来月3日午後4時半、名古屋市中区栄4の池田公園で女性パートナーとの結婚式をする。誰でも出席できるよう公園で式を挙げることにした尾辻さんは「現在の日本では、同性をパートナーとする人々が公に祝福されることなく隠れて暮らし、法的な保障もないことを多くの人に知ってほしい」と話している。尾辻さんは現職の府議だった05年8月、全国の都道府県議で唯一、同性愛者であることを公表。現在は講演活動などをしており、今夏の参院選で、民主党公認の比例代表候補者となっている。」

憲法の14条をごらんください。

第14条

「すべて国民は,法の下に平等であって,人種,信条,性別,社会的身分又は門地により,政治的,経済的又は社会的関係において,差別されない。(以下略)」 

同性愛者に対して、東京都があきらかに差別的態度を見せた有名な事件として、「東京都青年の家事件」というものがあります。

それは同性愛者の団体がであり同性愛者の人権を考えるための活動をしているメンバーが団体の趣旨を説明した上で、同施設に宿泊したところ、入浴中に少年サッカークラブの小学生数名に浴室を覗かれて笑われ、朝食時には「ホモ」「オカマ」と言われたほか、青年キリスト教団体のメンバーからも同様のことを言われたことからはじまりました。

そしてその後同団体は、他団体との摩擦を懸念され宿泊予約を拒否されることになりました。

東京高裁平成9年9月16日判決は、異性愛者を前提とした男女別室宿泊の原則を同性愛者へ機械的に適用して、同性愛者団体の宿泊利用を一切拒否することは、同性愛者の利用権を不当に制限しており、それは実質的に不当な差別的取扱いであるという都へのきびしい指摘を残しています。

都には同性を愛する人達に対して、行政が本来備えるべき意識の萌芽さえ存在していなかったというのが10年前の段階でした。

ところで憲法14条が同性愛者に憲法的保護を与えるためには、同性愛者という立場が文言にある「社会的身分」と言えるかどうかにかかっています。

自分の意思次第で差別を受けないで済むものなら保護の必要性は低いので、14条にいう社会的身分とは、自分の意思では脱却できない地位のことをいうと考えられます。

そして最近の社会科学は、同性愛という立場を選択的な性的趣向の問題ではなく、より生来的な問題であると解明しつつあります。

もしそのことがはっきりとした証明を得たならば、それは自分の意思で離脱できる、できないの範囲には収まらなくなり、当然に社会はそれを”身分”であると呼ぶことが要求されます。

そしてその場合は、憲法14条自身のためにも、同性を愛する人達を保護する価値は十分にあるのです。[参照:別冊ジュリスト No.186 (186) 憲法判例百選(1) 第五版 有斐閣]

事実婚において意外に不便なのは公的サービス面ではなく、企業サービス面だといわれます。(公的サービス面では意外に解釈の伸張が行われます)

生命保険の受け取りや住宅購入のための融資、クレジットカードや携帯電話、インターネットプロバイダの家族会員などの拒否に会うことが多いといいます。

そうしたものが克服され、同性を愛することに誇りが高い世界とは、あなたもわたしもそのオリジナルな生き方に誇りが持てる世界だということと意味を同じくしています。

 

 

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2007/05/08

Imaginary Domain:やわらかい場所

わいせつ画像で口論 夫が妻の首絞め、死亡(日テレ)
「調べによると、川上容疑者は6日午後9時から10時ごろまでに、自宅マンションで、携帯電話に保存していたわいせつな画像をめぐって妻・和子さん(28)と口論になり、両手で和子さんの首を絞めた疑いが持たれている。」

憲法の13条をごらんください。

第13条

「すべて国民は,個人として尊重される。生命,自由及び幸福追求に対する国民の権利については,公共の福祉に反しない限り,立法その他の国政の上で,最大の尊重を必要とする。」 

プライバシーという権利には、現在の処”純然たる私生活・私事に属する事項である”というとてもおおざっぱな定義だけが与えられています。

わたしやあなたが他人に煩わされずに幸福を追求する権利は憲法13条が保障しようとする権利であり、それは人格権の1つだとされています。

しかしてプライバシーというものの核心がなんであるのかは、いまだはっきりとした答えがでていません。

ところで法哲学者、ドゥルシラ・コーネルは、”イマジナリーな領域への権利”という議論を提唱しています。

わたしたちは乳児の頃、大人の話す言葉や振る舞いをもとに、自己イメージを徐々に重ねていきますが、その心的な空間のことを”イマジナリーな領域”と彼女は定義します。

わたしたちはその領域のなかで他者と接し、アイデンティティを徐々に獲得していくというわけです。

そこは、社会的な役割や性別が負わされている建前を放棄して、より自分らしい自分のカタチを追及するための心理的な小部屋です。

”イマジナリーな領域”という理念の核心には、自己を性化された存在(sexed being)として感じる人格として創造する自由があるといいます。

もっとも彼女が”イマジナリーな領域”という概念を用いて指摘するのは、野放図な性のイメージが街にあふれることで女性達がもつそれが反復汚染され、やがて自己イメージを貶めるという段階です。[参照:セクシュアリティと法:憲法解釈とフェミニズムの視点 田代亜紀 東北大学出版会]

しかしその、社会的なジャッジや公明正大な建前からもっとも遠い場所で、性化された自分自身の心象を発達させようという心の小部屋という概念は、プライバシー権というものの核心としてのふさわしさを感じます。

誰かに褒められるためではなく、あなたにとってのセクシャリティとは何なのか、またあなたとは誰なのかを安心して究明できる場所が心の中にも許されなければ、わたしたちはどうそれを無視しながら期待される社会的な役割を果たせるものでしょう。

もしプライバシー権の核心を見つけるための議論が、その最後に性を見つけたならば、それは上質な議論だったと呼ばれるべきです。

時にわたしたちは愛と性が極個人的なものであることを許さず、誰かの小部屋をこじ開けて”正常なセクシャリティ”を押しつけたくなります。

だからといって、それが人に手をかけることの理由になるはずもありません。

しかしその領域を法がたくましく保護することは、社会をひとつ上の次元に向かわせる装置になりうるかもしれません。

 

 

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2005/07/10

ニューハーフの女子房収監と文明の脊髄

ニューハーフの収監者「性別変更」認められ女子房へ (Yahoo)

性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律の第2条をご覧下さい。

第2条(定義)

「この法律において「性同一性障害者」とは、生物学的には性別が明らかであるにもかかわらず、心理的にはそれとは別の性別であるとの持続的な確信を持ち、かつ、自己を身体的及び社会的に他の性別に適合させようとする意思を有する者であって、そのことについてその診断を的確に行うために必要な知識及び経験を有する二人以上の医師の一般に認められている医学的知見に基づき行う診断が一致しているものをいう。」 

性同一性障害とは、精神的に認識する自分の性別が、身体的性別と合致しない感覚とともに生きてきて、そのことで性別上社会的に要求される役割などとの軋轢を受け、そのままではずっと精神的苦しみを受け続ける状態の障害のことです(私的定義)。

性意識と身体的性の合致して生まれてきた人間が、性同一性障害を抱える人の苦難・苦悩を完全に自分の中に再現することはおそらく困難であり、少数派のそういった人たちはこれまで「個々人の問題」として法律的に放置されてきましたが、社会の成熟化が進んだ昨年7月、やっと施行されることになった法律です。

本法の基本的性格は、「社会」という第三者の集団が、一個の人間の内心と外面にねじれを「公的」に認めようとするものです。

そしてその効果として、本法の条件を満たせば戸籍上、性別を内面に合致させることが認められます。

具体的には、内心自分が女性だと感じている、身体上男性の人が、どれほど女性の格好をしていても空港では男性写真と男性名のパスポート提示を強制されたり、病院の待合室で男性名で呼ばれたりという社会的枠組みとしての障害が除去されることになります。

しかし、「完全な客観」というものがファンタジーでしかないように、本法も無意識のうちにマジョリティの視点が投影されているとも批判されています。

たとえば2条では、戸籍変更に係る3条の条件検討に入る前の段階として、2人以上の医師が「心理的にはそれとは別の性別」をもつ患者であると認定することが必要とされています。

不可逆措置に対する慎重性の確保だともいえますが、そもそも自己申告以外に、内心の形の認定を第三者にしてもらうということに無邪気なおぞましさがひそんでいないかという問題提起です。

もう一度言いましょう、果たしてあなたは誰かに自分の心の形を認定されたいでしょうか?

3条各号の戸籍変更に要する各要件も含め、今後より繊細な改正が必要かと考えられます。

時代の良心は、常にその時点では最高の意識であると信じられてきました。

江戸時代には罪人の首を切って街道にさらすのも普通の社会的意識でしたし、産業革命時代、子供達を目覚めてから眠るまで働かせることも一般社会常識でした。

私たち人間には、自分自身の怠惰な心的態度が、誰かの脅威にならないように、常に自分の意識の成熟度に対して疑いを抱く自由が本質的に与えられています。

それが文明の脊髄です。

法理メール?

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2005/06/08

ペンギンさんの同性ペアと生き方の果実

<ペンギン>同性ペアが相次ぐ 北海道登別市の水族館

憲法14条1項をご覧下さい。

第14条

「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。(以下略)」

ペンギンさんから「こんな極東の島まで勝手に連れてきた上に、誰をパートナーに選ぶかまでイチイチ口を挟んで、あたかも同性愛が社会の病のような暗喩として用いるとは」という嘆きのメールが届きました。

そこで本誌では人の同性同士の愛が、法律的にどう保護されているのか、あるいはされていないのかを憲法の分野で検討してみます。

現在私たちの使っている憲法では、14条で国家が国民を不合理に差別してはならないと決めています。

これを法の下の平等と呼びます。

戦争に負けるまで、私たちの島の上では人の大きさは異なっていました。

もっとも大きな人が天皇、次に大きな人が貴族、あるいは軍部、その次にやっと人らしき大きさで歩いていたのが平民の男性、そしてその後ろを人よりも小さな姿であるいていたのが平民の女性でした。

(それは慣習でなく、憲法で間接的に表現されていました。)

法の下の平等がGHQの肝入りで定められた背景には、地上を戦火に巻き込んだ第二次世界大戦が、権力者とその周辺が中央で強権を行使し、国民を一方的に支配した独裁制に原因があったとの戦勝国側の判断があったものと思われます(私見)。

私たちの国では現在の憲法14条をもって、この島に立つ人たちの大きさはみな同じとなり、政治の組織化や運営は、私たちが選挙を通じて間接的に決定める民主制をとっています。

そしてその基盤として、14条は、二度と人の大きさを区別してはならないとし、その判断の基準の例として、「人種、信条、性別、社会的身分又は門地」などを列挙しているのです。

ところで私たちの裁判所で、男性が男性を、女性が女性を愛している人の大きさも、この14条1項で同じとされるのかに結論が出たのは平成9年9月16日のことでした。

その通称「東京都青年の家事件」は、青年の家に宿泊しようとした同性愛のグループが都の施設である青年の家から差別的取り扱いを受けたことを争った事件です。

東京高裁は都教育委員会の宿泊不承認処分を「青年の家が青少年の教育施設であることを考慮しても、同性愛者の利用権を不当に制限し、結果的、実質的に不当な差別的取扱いをした」と結論づけました。

都という地方公共団体の差別的意識の認定と、それが憲法14条の精神、背景で判断して誤っていたことが認定されたわけです。

つまり私たちの島では、同性を愛する人の立場も、憲法14条1項の立法趣旨により、不当に極小に扱われないことになっているといえるでしょう。

同性を愛する人たちはそのことにむしろプライドをもっているでしょうし、そうでなければ自分を一生責め続けて生きるハメになります。

そしていったん憲法で同じ島の上に立つ人たちが皆堂々と歩ける同じ大きさにすると決めた以上、だれかが生き方により社会から小さく扱われ、自分を責めて生きなければならないような思想の復古は許されませんし、それを許す先には差別した私たちがまたただの砲弾にされて砲台の上に乗せられる時代への道が続いています。

同性を愛する人たちの美的感覚が異性を愛する人たちの感覚より優れているのは、彼らの生来の資質というより、むしろ安全な感覚より自分自身の感覚を優先する生き方を選択したことによる果実のように感じます。

同時に安全な感覚を優先する多数の人たちも、少数派の人たちの道を必要以上に険しくしないルールを守ることで、永遠の人間らしい暮らしという果実を収穫しつづけられるのです。
 

 
法理メール? 

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