2007/05/02

AED:Erlaubtes Risiko

自動除細動器で球児助かる 大阪、観戦の救命士が処置(東京新聞)
「同校などによると、試合は4月30日にあった春季近畿地区大会府予選3回戦の桜宮-飛翔館戦。飛翔館の投手上野貴寛君(2年)はマウンドで打球に直撃され、倒れて動かなくなった。子ども連れで観戦していた岸和田市消防本部の岡利次さんが人工呼吸や心臓マッサージをし、学校関係者が運んできたAEDを使用。上野君は間もなく息を吹き返した。AEDは心臓にショックを与える救命装置。公共施設などに導入が進められており、同校には2年前、卒業生が寄贈した。」

刑法の37条1項をごらんください。

第37条(緊急避難)

「自己又は他人の生命、身体、自由又は財産に対する現在の危難を避けるため、やむを得ずにした行為は、これによって生じた害が避けようとした害の程度を超えなかった場合に限り、罰しない。」  

普通わたしたちが人の体に針を刺したりメスで切ったりすれば傷害罪になります。

その点はお医者さんでも同じですが、それが合法な医療行為だと認められる時に限って違法性が阻却されています。

それは刑法35条にいうところの、”正当業務”と呼ばれる行為にあたると考えられているからです。

その行為が”違法”と呼ばれないためには、(1) 適正な治療目的、(2) 適正な手段、医学的に妥当な方法、(3) 患者さんの承諾が必要です。

しかし緊急時に人体へ電車を動かすほどの電力を通す機械、AED(自動体外式除細動器)を使う状況では、承諾は当然なく、状況も万全でないのでこれら要件を欠いています。

そこで例外的医療行為として、刑法37条緊急避難の法理(差し迫った危難を避けるため、やむをえず別の利益を害しても罪としないルール)が適用されると考えられます。

そこに誰かの生命の危険があり、他に方法がなく、胸に電撃を加えることが、救急隊員が来るまで放置するより優先されるなら、AEDは”許された危険”として違法と解釈されなくなるのです。

逆にその有益性より危険性が上回ってしまう時は、医療行為と呼べる範囲を逸脱しますので(たとえば健康な友達に対して練習で使ってしまうこと)、傷害としてその違法性の検討段階に入ることになります。(参照:臨床のための法医学 朝倉書店)

心筋梗塞や不整脈などでは、心臓が細かく震えて血液を送り出せなくなる”心室細動”により心停止が起こります。

心臓が停止すると4分以内に脳に障害が発生します。

心室細動を正常な状態に戻さなければ心臓からの血液の送り出しは正常に戻りません。

除細動とは、電気ショックでこの心臓の痙攣を取り除く処置のことです。

AEDはその装置を開けば、あとは自動で電源が入り、コンピュータがどう操作すればいいのかを案内してくれます。

しかも電極パッドを貼り付けた傷病者が、今本当に除細動が必要なのかをコンピュータが心電図解析して判断の上、除細動を行う装置です。

それは数十万円する高価な装置ですが、それを寄贈することにした卒業生達の意思が、一人の少年の人生を取り戻しています。

 

 

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2007/04/24

クサビは俺に打たせろ

鈴木ヒロミツさん死去8日前のメッセージ(ニッカンスポーツ)
「延命治療を断り、妻美枝子さんと1人息子の雄大さん(20=大学生)と過ごす日々を選んだ。」「お別れ前に、一つだけ生意気を言わせてください。皆さん、これからの人生を、どうか楽しむために生きてください。人にはそれぞれ願いがあると思います。でも、目的が何であれ、笑って、笑って、腹の底から笑えるような人生を送って欲しい。僕はね、死を前にして、はっきり思ったんです。人生とは楽しいものだと。だから、どうか、楽しむために生きてください」

憲法の13条をごらんください。

第13条

「すべて国民は,個人として尊重される。生命,自由及び幸福追求に対する国民の権利については,公共の福祉に反しない限り,立法その他の国政の上で,最大の尊重を必要とする。」 

自分の身なりや家族のあり方、生死に直面して延命治療を行うか否かを自分自身で決定できる法的権利のことを自己決定権と呼びます。

その根拠になりうる条文は、憲法の13条、とりわけ幸福追求権条項だといわれています。

その概念は民法学者の山田卓生博士が1979年、米国の論文などに触発され、法学セミナー誌上で「私事と自己決定」を連載したことがきっかけで法曹の世界に定着しました。(参照:岩波講座 現代の法〈14〉自己決定権と法

自分の身の処し方を人様に迷惑をかけない範囲で自分が決める権利とは、どうにもいとおしい大切な権利のように思えますが、今のところ日本の裁判所が、自己決定権を真正面から認めた判例は存在していません。

考えてみるに、もし不治の病にかかったとき、延命治療に賭けるか、生の形に自ら決着をつけるのかを選んでよいという権利が、法的に確立されていなければ、終局に来ておのれの人生は一体誰のためにあったのかという点をボンヤリさせてしまうことでしょう。

その意味で究極の自己決定権、すなわち自ら死を選ぶ権利(The Right to Die)は、自己決定という言葉の中核にある”自己支配”という価値を、その死の間際で鮮やかに燃やしつくす撃鉄のようです。(私見)

英語の歌詞の曲など、特にセルフプロデュース作にその高い音楽性を示した鈴木ヒロミツさんが、延命治療を拒否して自らの命に決着をつけられました。

そして「皆さん、これからの人生を、どうか楽しむために生きてください」という絞り出すようなメッセージは、読む者の胸をしめつけます。

「自分の支配を取り戻せ」、彼はあたかもそういって笑って去ったかのようです。

 

 

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2007/04/17

銃:イリヤを吹き飛ばす装置

米バージニア工科大で銃乱射、33人死亡 米史上最悪(CNN)
「目撃者の同大1年生によると、ノリス・ホールでのドイツ語の授業の最中、男が「誰かを探しているような素振り」で教室をのぞき込み、発砲を開始した。学生らは入口を塞ごうとしたが、ボーイスカウト風の服を着用した男は教室内に入った。血が散乱するなか、ショックを受けたとみられる学生らは気を失った。現場を脱出したのはわずか4人で、残る20人近くは死亡もしくは負傷した。」

刑法の199条をごらんください。

第199条〔殺人〕

「人を殺した者は,死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する。」 

わたしやあなたにとって、自分の思うとおりにはならない”他者”という存在は、時に随分悩ましいものです。

場合によっては憎い他者を、世界から消してしまいたいと考えてしまうのも、聖人以外誰もが夢想する極ありふれた感情だといえるでしょう。

ただしわたしやあなたがたとえ世界の全員が気に入らなくとも、武器を手にとって彼らを殺めれば日本国刑法の199条の罰が待っていますし、その倫理は他国でも同じです。

ところで刑法199条は、その罰を受け入れる気があれば、たとえば最初から自殺して責任をとるつもりなら誰も彼も殺してもよいのだと逆読みをすることは許されるでしょうか?

たとえばエマニュエル・レヴィナスの論文集、「レヴィナス・コレクション」には、1951年の論文、「存在論は根源的か」が収録されており、そこには以下のような記述を見ることができます。

「他者のうちにあって、存在一般にもとづいて私に到来する要素はどれもみな、私による了解と所有に供される。

他者の歴史、その環境、その習慣に基づいて、私は他者を了解する。

しかし、他者のうちで了解からこぼれ落ちるもの、それこそが他者であり存在者なのだ。

私が存在者を部分的に否定しうるのは、存在一般にもとづいて存在者を把持し、それによって存在者を所有する場合に限られる。

他者とは、その否定が全面的否定、つまり殺人としてしかありえないような唯一の存在者である。

他者とは私が殺したいと意欲しうる唯一の存在者なのである。」

レヴィナスはあたかも、人が誰かに固有の殺意を抱く前に、すでに殺意の発動やそのための装置の開発は、了解しきれない存在者に向けて構造上予告されているのだといっているかのようです。(私的解釈)

すくなくとも個人間レベルでは殺戮で存在の全否定をされることなどないよう、歴史が刑法へ投射した倫理が199条の正体なのかもしれません。

わたしたちは存在物以前の存在(イリヤ)という概念を理解できる唯一の生物です。

それゆえに、たとえ死刑を受け入れる気があらかじめあろうとも、銃を手に取ることは生物の特性上許されているとはいえないのです。

 

 

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2007/04/11

代理母・冷凍精子・狷介民法

保存精子で死後生殖、根津院長が公表…法整備の遅れを提起(読売新聞)
「根津院長は、子供の福祉の観点から、子供と亡夫の親との間で養子縁組をするよう要請したという。死後生殖は、過去にも西日本の40歳代女性が、夫の精子の保存先の病院に夫の死を知らせずに精子を受け取り、別の病院で体外受精を実施して、01年に男児を出産した例がある。この女性は、男児を亡夫の子として出生届を提出したが、受理されなかったため、認知を求めて提訴した。高裁では、夫の生前同意があったとして父子関係を認めたが、最高裁は、06年9月、現行の民法は死後生殖を想定していないとして訴えを棄却。法律上の父子関係は認めなかった。同様の訴訟2件も訴えを退けた。」

民法の772条をごらんください。

第772条(嫡出の推定)

「1 妻が婚姻中に懐胎した子は、夫の子と推定する。

2 婚姻の成立の日から二百日を経過した後又は婚姻の解消若しくは取消しの日から三百日以内に生まれた子は、婚姻中に懐胎したものと推定する。」 

民法はその定める親子関係を、必ずしも生物学的な結論と一致させてはいません。

たとえば養子という制度には生物学的血縁を要求されませんし、逆に生物学的な親子関係が存在しても法律上は親子だと認めない場合もあります。

それは婚姻秩序の維持や身分関係の法的安定のためだといわれています。

民法が法学的な親子関係を規定する理由は、大きく分けると3つあります。

第1に、親が死亡した場合に、その財産の相続人を定めるためです。

私有財産制度のもとでは,世代間の財産承継の秩序を保持するために,親子関係の存否の法的な決定が不可欠だからです。

第2に子供の面倒を見るべき第1次的な義務者を法定するためです。

未成熟の子は誰かが面倒を見ないと生きてゆけませんが、親が未成熟子を監護し養育することが、家族関係の中核部分なので民法はこの親の義務を法的義務にまで高めています。

その結果、誰が義務者かを確定するための規定を置く必要が生じるのです。

第3に、親子関係の連鎖によって血族関係が成立しますが、血族とされると一定の法的効果が生じます。

それは扶養や相続の要件となりますし、さらに血族を基礎として構成される親族という関係にも、いろいろな法的効果が結びつけられているのです。

したがって、血族や親族といった関係の最も基本的な単位である法学的な親子について定めておく必要があるという考え方です。(参照:内田貴 民法IV 補訂版 親族・相続 東京大学出版会)

司法は必ずしも生物学的な親子関係と法学的な親子関係を一致させてしまうことがわたしたちにとって幸福かどうか定かでない点にジレンマを感じています。

原則的にはどの立場にいる女性が、生まれてきた子供を一番愛情持って育ててくれるのか、司法は代理懐胎の場合ひょっとするとそれは実際にお腹を痛めて出産した女性である場合も多いのではないか、そして多くの人が関わる民法体系の基軸とすべきなのは、そうした手触りで確かめられる事実にまだしておくべきではないのかと考えているようです。(私見)

代理母、凍結保存精子、科学技術はこれからも今のわたしたちには想像もできないような方法で、悩みを持つご夫婦にお子さんをもたらしてくれるでしょう。

現実に比べ歩みが遅いと誹りを受けがちな法律改正ですが、ことそれが人の一生につきまとう家族法の分野に限っては、あえて先端技術よりも歩みを遅くしておくという判断にも、理はまた存在しているように見えます。

 

 

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2006/08/24

悲しみも引き受けるためだと、作家は子猫を谷に捨てた

子猫殺し:直木賞作家・坂東さんがエッセーで告白(毎日新聞)
「坂東さんは「避妊手術も、生まれてすぐの子猫を殺すことも同じことだ」との趣旨の主張をしているが、日本経済新聞社には抗議や非難が殺到、動物保護団体も真相究明を求めている。」

母体保護法の14条1項をご覧下さい。

第14条(医師の認定による人工妊娠中絶)
「1 都道府県の区域を単位として認定された社団法人たる医師会の指定する医師は、次の各号の一に該当する者に対して、本人及び配偶者の同意を得て、人工妊娠中絶を行うことができる。

一 妊娠の継続又は分娩が身体的又は経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれのあるもの
二 暴行若しくは脅迫によつて又は抵抗若しくは拒絶することができない間に姦淫されて妊娠したもの 」 

ねこの話を一旦人間に置き換えて、日本の刑法が生命というものをどうに規定しているのかを少し見てみます。

日本の刑法では、人間の子供が母体から一部でも露出した時点で、生命・身体に対する罪の保護客体とすることにしているといわれます。(一部露出説 通説・判例)。

それは刑法の設置した生命・身体に対する罪が独立の生命を有する個体の生命・身体を保護法益とするものである以上、胎児が母体から独立して直接に侵害の対象となった時を生命の保護開始時期とするのが合理的と考えられるからです。

これによれば胎児が母体から露出途中に誰かが胎児の命を奪ったならば、たとえ胎児の体半分がまだ母胎に残っていたとしても、すでにそれは堕胎罪とは呼ばれず殺人罪だということになります。

また、もし胎児でいる間に公害などで危害が加えられ、その結果子供が障害を持って生まれてきた場合、学説上の通説は傷害罪の成立を否定します(判例は肯定)。

何故ならば胎児に対しては堕胎罪が独立保護するのみであり、それ以外に胎児は刑法は未だ保護対象と見ていないと考えられるからです。

しかも母体保護法14条所定の事由があれば堕胎は許されており、刑法が胎児を保護する条文は事実上死文化しています。
 
このあたり論議のあるところですが、いずれにしてもわたしたちの刑に関する合意哲学は、未だ子宮の中にある生命を、母体外に出た生命に比べ前提としては(意図的に)ほぼ保護していないようです。

生物学上の見地とは異なり、刑法学が胎児と新生児を全く異なって扱うのは「生命は皆、最後に必ず終わる」という宿命から逆にたどって人のルールを構築した結果だといえます(私見)。

一旦出生という切符を手にした生命がある以上、その最後まで十全に燃焼させられるルールをつくることにも、わたしたちは意味を見つけられるはずだからです。

残念ながら猫は刑法上、器物としか扱われませんが、それを捨てることを持って生命そのものを語ろうとする人がいるならば、議論するための言葉を十分持たないわたしたちも顔がこわばって当然です。

社会哲学の反証に子猫の命を使うのは、あまりに酷いと感じる根元的理由がわたしたちにはあります。
 
 
 
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2006/08/12

can't be born again

皮膚から万能細胞 京都大教授ら、マウスで成功(朝日新聞)
「京都大再生医科学研究所の山中伸弥教授と高橋和利特任助手は、マウスの皮膚細胞から様々な組織に育つ「万能細胞」を作ることに成功したと、米科学誌セル(電子版)に11日発表した。万能細胞は、病気や事故で損なわれた組織や臓器を補う再生医療への利用が期待される。生命の萌芽(ほうが)である受精卵も、提供女性に負担をかける未受精卵も使わない山中さんらの方法は、倫理問題回避の道を示す画期的なもので、世界的に注目されている。」

文科省告示の第155号、第27条をご覧ください。

ヒトES細胞の樹立及び使用に関する指針
( 平成13年文部科学省告示第155号)

第27条(禁止行為)

「ヒトES細胞を取り扱う者は、次に掲げる行為を行ってはならないものとする。

一 ヒトES細胞を使用して作成した胚の人又は動物の胎内への移植その他の方法によりヒトES細胞から個体を生成すること。
二 ヒト胚へヒトES細胞を導入すること。
三 ヒトの胎児へヒトES細胞を導入すること。
四 ヒトES細胞から生殖細胞を作成すること。」 

ES細胞とは、受精後間もない胚などから取り出される細胞をいい、それは様々な臓器や器官に分化できることから、別名、万能細胞とも呼ばれています。

ヒト受精卵を使用したES細胞は、今後ヒトのあらゆる細胞、組織に分化しうる能力を有する可能性を秘めており、より研究が進行することを期待されています。

しかしこれまで、その採取源としては凍結受精卵等が使われていたため、特定の思想をもつ人たちなどからはES細胞を使った研究に強い反対の声があがっていました。

事実、大人になってからキリスト教への信仰をガチンコで開始した福音派(Born Again Christian)であるといわれるブッシュ大統領も、ES細胞研究への連邦助成を拡大する法案に対して就任後初の拒否権を発動する見込みなのだといわれています。

聖書を原理とする人たちにとって、”受精卵という神の仕事”を人の手が割ることなど圧倒的に間違った行為だと感じられるからです。

もちろんキリスト教原理主義者ではなくとも、たとえ新しい治療の研究のためとはいえ、無分別につぎつぎと医者が受精卵を割っていくと聞いて感情をかき乱されない人はあまりいないでしょう。

それを神の仕事と呼ぶかはともかく、すでに世界に生まれ得ることができたわたしやあなたの存在を哲学的に軽んじられないためにも、受精卵に対しては一定の規律的態度を誰もが要求したいと考えるはずだからです。

するとそれはすでに医師各人の内面に備え付けられた倫理に任せられる範囲のものではなく、このためヒト受精卵を使用したES細胞の取り扱いに関しては「ヒトES細胞の樹立及び使用に関する指針」という文科省発のガイドラインが存在しています。

このガイドラインは研究者の準ずべき規律を2001年9月25日はっきりと提示し、それ以降大学等で研究を行おうとするチームはまずこのガイドラインに沿った倫理審査委員会で審査・承認を受けた後、さらに文部科学省で審査・承認された研究のみが実施できるという縛りを受けることになっています。

さらに倫審委や文科省に問うまでもなく、明らかに研究者という前に人としての一線の倫理を超えていると思われる行為に関しては、あらかじめその27条が絶対禁止の領域に置いています。

さて今回、京都大再生医科学研究所のチームは、受精卵というデリケートな存在を破壊することもなく皮膚細胞から万能細胞を作ることに成功しました。

これで生命の誕生を神の仕事と呼ぶ人たちも、そうは考えない人たちの一般感情も、どちらも逆撫ですることもなく、難病に苦しむ人たちへの救いの道に明かりを差すことに成功しています。

ただしそれは文科省の「ヒトES細胞の樹立及び使用に関する指針」という告示の精神が不要になった時代の到来を意味するものではありません。

卵子を用いるか用いないかという研究手法の外形面がバイパスされた結果、研究者の意図も把握できづらくなる分、ますます第27条の立法趣旨はその重みを増す時代が到来したのだともいえます。

それはまず第一に、研究という名でもてあそばれてこの世に生まれてしまった人は、事実生まれ直すことができないという点にあります(私見)。

 

 

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2006/07/08

「合理的な疑いを越える証明」がなければ、被告人は有罪とされない

明石・砂浜陥没事故 国、市の4被告に無罪(神戸新聞ニュース)
「事故の予見可能性で検察は、事故現場の陥没のメカニズムより、同じ構造の砂浜で多数陥没があった事実を重視。どこで陥没が起こるか分からない以上、「砂浜全体を立ち入り禁止にすべきだった」と主張した。だが地裁は、事故現場で陥没が起きることを被告人が予見できなければ、過失責任は問えないとした。予見可能性の立証をより厳しく求め、検察が描いた事件の構図は完全に否定された。」

刑事訴訟法の第336条をご覧下さい。

第336条〔無罪の判決〕

「被告事件が罪とならないとき、又は被告事件について犯罪の証明がないときは、判決で無罪の言渡をしなければならない。」 

たとえば砂浜の特定の場所が立ち入り禁止にすべきほど危険だったことが、関係者には事前に予見可能だったのだと、はっきり証明できなかったとき、告発した検察側が受ける不利益のことを挙証責任とよびます。

もし裁判所がそこに犯罪の事実を確信できなければ、その不利益に従って、犯罪の証明がないことにより無罪の判決がなされます。

これが刑事訴訟法の336条です。

被告人とは、法技術上、「疑わしきは被告人の利益に」という法格言の下、ディフェンシブな態度が許容されている存在だといえます。

ではなぜ被告人という席にはそのようなアドバンテージが用意されているのか、光藤景皎 口述刑事訴訟法〈中〉成文堂から引用して説明してみます。

もともと「疑わしきは被告人の利益に」という原則は、ヨーロッパで行われていた”とても疑わしい”という罪、嫌疑刑が廃止されるとともに成立しました。

「疑わしきは被告人の利益に」を刑事訴訟の原則から外さないことは、嫌疑刑を再びその場所に戻さないためでもあります。

(嫌疑刑というものを一旦受けた後の無実のあなたの人生がどのようになるのかイメージしてみてください)

やがて嫌疑刑は廃止されましたが、代わって仮放免という制度が現れました。

仮放免というのは有罪の確証は得られないものの、十分な反証もあったとはいえない時、仮の無罪判決を言渡すもので、有罪の証拠がでてくればいつでも審理を再開することができた制度です。

しかし仮放免では「合理的な疑いを越える」有罪の証明がなくとも真の無罪とならず「疑わしきは被告人の利益に」の原則が貫徹しません。

そこで国家の側での犯罪の十分な証明のない限り、「無罪の推定」をうける市民の一人としての被告人は、確証無罪判決のばあいと同様の無罪判決を受ける権利を有する、それなのに仮放免はこの権利を侵害するものだとの主張が強力になされ、やがて仮放免も廃止されることになります。

それは「疑わしきは被告人の利益に」の原則を完成させました。

ところで刑事手続では「合理的な疑いを越える証明」(通常の経験知識をもつ人が、抱くのももっともだと思われる疑問を克服した証明)がなければ、被告人は有罪とされないという原則が早くから採用されていました。

一方で民事訴訟では「原告立証せざるときは被告は免訴さる」という原則がありますが、これはつまり、原告の証明が被告のそれに優越していればよいだけです。

なぜ刑事訴訟においては「合理的な疑いを越える証明」という高い基準が要求されているかといえば、一言で言って、有罪判決が人の生命・自由又は名誉にとって回復しがたい重大な不利益をもたらすものだからです。

したがって「合理的な疑いを越える証明」という基準は事実誤認にもとつく有罪判決の危険を最小限にするための主要な手段となったのです。

被告人は「合理的な疑いを越える証明」がなければ有罪とされることはない、それを言い換えたものが336条、「推定無罪」です。

推定無罪という装置はわたしやあなたの暮らす場所を「推定善人の街」として成り立たせ、また誤ってあなたが罪人と疑われ捕らえられたときのためのエアバッグ(適正手続)としても機能するということです。

さて、専門家は「砂層中に大規模な空洞が発生しているのに、地表に異常が見られない現象は、土木工学上一般的でない」とその予見可能性を否定しました。

しかし”人工の砂浜”で陥没事故が起きて少女の命が飲み込まれたという悲惨な”結果”だけがあって、そこに”原因”を作った人はいない、というお話は、たとえ小学生であろうともこれを納得させることは難しいでしょう。

事実ニュースキャスターがその疑問を純粋に司法機関のだした結論へ投げかけているのを見ました。

民事では賠償責任を自ら認めた国交省や明石市は、刑事法廷では推定無罪というカーテンの向こう側へ消えることになりました。

しかしそれは刑事訴訟という特別重大な罰が用意されている場所だけに用意された、特別な法原則であるともいえます。

刑事訴訟上”「合理的な疑いを越える証明」がなければ無罪と推定する”取り決めと、”話の真実として無罪である”ことは、かならずしも同義ではないことは知っておいていいでしょう。

そうでなければ理由も知らされず砂に消えた少女の思いが浮かばれません。




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2005/05/27

少年の決闘と多重起動する60億の世界

少年12人が『タイマン』決闘などの疑いで逮捕(中日新聞)

「生徒らは「K-1が好きで、タイマンにあこがれていた。お互い承知しての決闘で、なぜ捕まるのか分からない」などと供述しているという。」

決闘罪ニ関スル件という法律の第3条をご覧下さい。

3条〔決闘殺傷〕

「決闘に依りて人を殺傷したる者は刑法の各本条に照して処断す。」
 

刑法配下にある「決闘罪に関する件」3条には、たとえ怪我をした相手が決闘に同意していたとしても、刑法の殺人罪や傷害罪を成立させるのになんのいいわけにもならない(違法性を阻却しない)ということが書かれています。

少年達の素朴な疑問に答えるために、なぜ全員が同意していたのに罪になるのかを、少々観念的になりますがいっしょに考えてみましょう。

そもそも一人の人の生命とは、国家から最高の価値観をもってもちいられるべき絶対価値であることには間違いがありません。

おっと、これは決してきれい事でも能書きでもありませんよ。

よくよく考えてみてください。

世界とはニュースで繰り返される国会の紛糾のことではありません。

世界とはあなたが雑誌であこがれるセレブの住む豪邸のことでもありません。

世界とは今そこで、そうやって指先にパソコンの固さを感じ、そしてモニターを見つめている目の奥で凝りを感じているあなた自身の中で、毎日再編される”一日の意味”そのものを指します。

それが間違いなくあなたにとっての”世界”であることは、あなたの胸の中でざわめいた今の感情に聞いてみればわかるはずです。

それ以外に”厳然たる世界”というようなものが、日銀の地下金庫に保管されているわけではありません。

一個の生命をドブに捨てるように終わらせるのは、一個の世界をドブに捨てることを意味しますので、国家はこれにたいして考え得る最高の待遇を、他人の迷惑にならない範囲内で約束しています。

これが憲法13条、「個人の尊厳」といわれる思想の正体です(極私見)。

対して国家とは、各人の”世界”が一億五千万個集まり、なんとかその総意をまとめて国を運営していこうとして構成され、新陳代謝を繰り返してきた機構です。

このため、国家の一構成要素である生命は、保護の真の客体であると同時に、保護を為す替えのない主体でもあることになります。

(保護が機械によってなされれば、あなたは途端に”世界”ではなくなります。それが何故なのかは考えてみてください。)

国家はその生成経緯としても、成立根拠としても、一個の”世界”を安易に失うわけにはいかないのです。

これが国家が生命の自己放棄を許さない理由です。

決闘において相手の同意がその違法性を阻却しないのは、生命は確かにあなたのものですが、同時に他の”世界”を成立させるための重要な要素であることの刑法的解答なのです(私見)。

残念ながら決闘罪は、あなたが安易に生命を放棄することを許してくれません。

しかしその条文は同時に、あなたが他人の世界の部品ではないことを裏書きしています。
 
 

 
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2005/02/06

殺す人が世界を隅から喪失させる

愛知・安城市の乳児殺傷事件、氏家容疑者を送検

刑法199条をご覧ください。

第199条(殺人)

「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは三年以上の懲役に処する。」

『人を殺してはならない』という結界が一旦破られたなら、世界はその隅から白々と失われていくはずです。

殺してよいのなら所有権などなく、契約も成立しないわけで、ビルはおろか車も道路さえもこの世の中に顕出しえません。

いったん世界の刑法から殺人罪が削除された途端、その法律書の活字はすべて薄らんでゆき、それどころかこの世のなにもかもが輪郭をうしなっていくのです。

199条の根本原理を真の意味で理解するには、他者とあなたの対立関係を解きほぐさなければなりません。

なぜ人を殺してはならないのか。

そもそもそう問いはじめたあなたとはいったいどこにいる誰なのかが問題です。

「自分がされたらいやなことは他人にもしてはならないから」といったような、なまぬるい視点に収まり続ける限り、乾いた自分はいつまでも現れません。

我々は連なっており、そのうえで砕けているはずです。

それを理解するための鍵になる問いこそが、実は「なぜ人をあやめてはならないのか」ではないのでしょうか。

自分というものが最初から手放しで独立していると愚かにも過信してしまった者だけが、子供に刃物を立てえるのです。
 
 

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