2006/06/02

男はアトリエを訪れ服を全て置き忘れた

洋画家・和田義彦氏、作品酷似で文化庁に調査うける(サンスポ)
「今春の芸術選奨で文科大臣賞を受けた洋画家の和田義彦氏(66)が、主な受賞理由だった昨年の展覧会に、知人のイタリア人画家の絵と酷似した作品を多数出展したとして文化庁が調査していることが28日わかった。「盗作された」とする伊画家に対し、和田氏は「似た作品」と認めながら「同じモチーフで制作したもので、盗作ではない」と主張している。」

著作権法の10条1項4号をご覧ください。

第10条 この法律にいう著作物を例示すると、おおむね次のとおりである。

4.絵画、版画、彫刻その他の美術の著作物(以下略)」 

絵というものが売っているもの、それは言語がそれを捕まえる以前の段階にある何かを作家といっしょに凝視すること、であるような気がしています。

自分の好みは別として、絵画の鑑賞やその所有がもたらすものとは権威や換価性など、対他的効果などにはなく、本来極めて、特に本質的に対自的であるはずです。

お前は音楽がわかるかという愚問がタワーレコードに集う客同士で一切交わされないように、歴史上個人が絵画に求めてきたものも、わかるわからない、有名無名、高尚低俗ということではありませんでした。

(それは板切れに描かれたキリストの姿が始まりだといわれます)

鑑賞者は億万長者であろうが心の汚れた人であろうがそんなことに関わりなく、絵画の鑑賞においては、最後に自身をどこまで信頼できるかだけが試されることになります。(極私見)

その上で最後に掌に残った画家の名前だけが、とりあえずの自分にとって重要な画家ということでいいのではないでしょうか。

(個人的にはピカビアや若冲が好きですが、それはどうでもいいことです)

絵画には極私的で小さな真実が、その向こう側に、鑑賞者どころか作家自身に対しても発せられる問いかけとして存在していることだけが(本来)求められてきました。

するとひとつの絵画に権威を与えるべき拠り所とは、自らの存在の全てを技術を頼りに、どれほど”名前のないもの”に対して投げ出すことができた作品なのかという点に(ややこしい人的関わりを捨象すると)なるような気がするのです。

してみれば別の作家のアトリエを訪れた作家が、そこにあった絵とそっくりのものを世に送り出したとしたならば、彼はその作家人生で身を投げ出したことのなく、はじめからそのつもりもなかったのだと裏書してしまったことになります。

わたしたちの暮らす世界の目に見える部分は、違反がはっきりしたならば著作権法がそれを妥当に処理してくれるはずですし、画家の神聖のために著作権法はその10条1項5号を用意しています。

しかし彼が権威という法が縛れないものを手放したくないのなら、むしろ権威は彼に授けたままでいいと思います。

それは絵を描く上で権威などどうでもいいものとは、少なくとも思っていないことを意味するのですから。



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2005/05/21

芸術テロリストを許容できる社会という幸福

「芸術テロリスト」今度は大英博物館にニセ壁画(読売新聞)
「今年3月、メトロポリタン美術館などニューヨークの4つの美術館に自作を勝手に展示した英国人画家「バンクシー」が、今度は、大英博物館に、古代人がスーパーマーケットのカートを押しているニセモノ壁画をこっそり展示した。」

刑法の35条をご覧下さい。

第35条(正当行為)

「法令又は正当な業務による行為は,罰しない。」

さて、あなたは芸術テロリスト、バンクシーさんの行為は法で罰せられるべきだとお考えですか?

私たちの刑法の35条にある「正当」という一言は、「法律的な正当」だけでなく、「社会通念上の正当」な行為も不可罰なのだとまで読み込まれています。

これは実質的違法性論という、ちょっと難しそうな考え方から導かれる結論です。

実質的違法性論とは、バンクシーさんの行為が形式的に法に背いただけでなく、全体としての法秩序に実質的にも違反している時まで待って「その行為は違法だよね」と認定する考え方のことです。

仮に事が日本で起こり、仮に美術館に鑑賞目的以外に入った行為をもって、形式的に建造物侵入罪に背いたとしましょう。

(美術館の管理権者が彼を招き入れたのは普通の客だと思ったからで、バンクシーさんの目的を知らず招いたときは無効だと考えれば可能です。)

次に私たちはあわてて彼を裁く前に、バンクシーさんがなにがしかの法益を侵害したのかを見つけなければなりません。

なぜならもし「実質的にも違反した」ことを、なにかの法益を侵害したこと、プラス、社会的に許されないことをしたことの二面で判断するのだとすれば、まず一方の法益侵害の事態がそもそも発生していなければならないからです。

これを法益侵害不可欠の原則と呼びます。

そしてここでも仮に、「権威ある美術館の社会的信用を損なった」となんとか法益侵害を認定できたとしましょう。

するといよいよ私たちは、バンクシーさんが社会的に許されない行為をしたのかを判断することになります。

もし美術館に自作を持ち込む行為が社会倫理秩序としては許せるものだとしたら、たとえ美術館の法益を侵害していたとしてもバンクシーさんの行為を「違法だ」と呼ぶべきではありません。

なぜなら社会倫理規範を用いることなく行為の違法性を論じはじめると法律は途端に私たちの手元から一人歩きをしはじめてとても危険な世の中になりかねないからです(私見)。

この社会倫理秩序の基準のことを刑法において社会的相当性と呼びます。

社会相当性という名前の紳士がいたとすれば、つい権威を手に入れようとする私たちに対するバンクシーさんのブラックジョークをこれは一本とられたと大笑いするだけでしょう。

バンクシーさんがいつまでも捕まることなく、彼のパフォーマンスのニュースが繰り返し海を越えて聞こえてくると、行為もさることながらそれを容認している欧米の発達した一般法感覚も相俟って、私たちをどこか爽快な気分にさせてくれます。

あなたは、日本で同じ芸術テロが継続して容認されるかどうか、是非一度想像してみてください。
 

 
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2004/12/01

歩けるところまで歩いてみよう、足跡だけは残るから

憲法の13条をご覧下さい。

第13条〔個人の尊重,生命・自由・幸福追求の権利の尊重〕

「すべて国民は,個人として尊重される。生命,自由及び幸福追求に対する国民の権利については,公共の福祉に反しない限り,立法その他の国政の上で,最大の尊重を必要とする。」

はじめまして。

私は「法理メール」というメールマガジンを2001年8月21日から毎日かかさず発行させていただいている氷と申します。

ここ「恵比寿法律新聞」は、法律を誰もが気軽に語れる可能性を提示させていただくためにはじめてみます。

ニュースを素材にして法律的論点を記述していきますので、資格試験に臨まれる方はもちろん、一般の方に法律用語に日常的に触れていただく機会を増やしていただければ幸いです。

いったい私ごときにどれほどの文章が書いていけるものなのか、憲法13条後段で保障された幸福追求権を行使して追求させていただくこととします。

乱文ではございますが、これからどうぞよろしくお願いします。

恵比寿法律新聞 法理メール発行人 氷


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